第百一話 マリー・エドワーズは父親の喧嘩の理由を知る



マリーと真珠は『銀のうさぎ亭』に帰って来た時には空はすっかり暗くなっていたが、道は街灯に明るく照らされていて視界は良好。夜になっても人通りは多く、賑やかだ。

『銀のうさぎ亭』にほろ酔いの客が入っていく。マリーと真珠は客の後に続いて中に入った。


カウンターには母親がいて、客の相手をしている。

マリーは真珠を床におろして、父親の姿を探して食堂に向かった。真珠もマリーの後に続く。


『銀のうさぎ亭』の食堂には長方形のテーブルが四つ並び、背もたれの無い四角い椅子がテーブルごとに八脚ずつ置かれている。

店内に飾り気は全く無いが掃除が行き届いていて清潔感がある。今は夜なので、それぞれのテーブルとキッチンの棚に置かれたランプの光が揺れている。


食事をしている客は二人。同じテーブルに向かい合って座っている中年の男女だ。夫婦だろうか。

濡れた布巾で空いたテーブルを拭いていた父親は、マリーに気づいて手を止めた。


「マリー。シンジュ。起きていたんだな」


「うん。お父さん。おはよう」


「わうわぅ」


「夜におはようっていうのは変な感じだが、おはよう。マリー。シンジュ」


「お父さん。今、ちょっと話せる?」


「ああ。ちょうど、仕事が一段落したから大丈夫だ。どうした?」


「あのね。お父さんは『歌うたいの竪琴』という酒場の店主さんと喧嘩をしたの?」


マリーの言葉を聞いた父親の顔が強張る。


「誰から聞いた?」


「『歌うたいの竪琴』の店主の息子とさっき偶然知り合ったの。その時に教えてもらった」


「……そうか」


父親は眉間に皺を寄せ、ため息を吐いた。


「酒をおろさないって言われたって聞いた。それって、大変なことなんじゃないの?」


「食堂で酒を出さなければいいだけだ。何の問題もない」


マリーはさっき見かけたほろ酔いの客の姿を思い出す。

『銀のうさぎ亭』で酒を出せば、客は外に飲みに行かなくてもいいし、うちの利益になるはずだ。


「子どもは何も心配しなくていい。母さんがマリーを心配していたから、顔を見せに行け」


「……うん」


マリーに背中を向けてテーブルを拭き始めた父親に肯き、マリーと真珠は食堂を出た。


カウンターには客の姿はなく、母親だけがいた。


「マリー。シンジュ。起きたのね。よかった」


「お母さん。おはよう」


「わうわぅ」


母親はカウンターから出てマリーと真珠に歩み寄り、身を屈める。

そしてマリーと真珠を優しく抱きしめた。


「目が覚めてよかった。ずっと眠っていたからお腹が空いたでしょう? マリーがお祖母ちゃんに教えてくれたレシピで焼いた肉があるのよ」


「食べてみたいけど、真珠が……」


「くぅん……」


「真珠はまだ子犬だから肉を食べない方がいいわね。ミルクをあげるわ」


「私もミルクだけでいい。真珠と同じがいい」


「マリーはちゃんと食べなきゃダメよ」


「じゃあ、パンをちょうだい。パンとミルクだけでいい」


母親は困った顔でマリーを見たが、口を真一文字に引き結んだマリーの強情な顔つきにため息を吐き、カウンター奥に姿を消した。

そして黒パンを乗せた木皿をカウンターに置き、木のコップと木の平皿にミルクを注ぐ。

マリーはカウンター前にある椅子に座ってミルクが入った平皿を取り、椅子から下りて平皿を真珠の前に置いた。


「真珠。どうぞ」


「わぅわうう。わうー」


真珠はマリーにお礼を言ってミルクを舐め始めた。

マリーは真珠に微笑んで彼がミルクを飲んでいる姿を見つめた後、椅子に座る。

そして憂鬱な気持ちで黒パンを手に取り、小さくちぎった。

小さくちぎればまずさも軽減されるような気がする。

マリーはちぎったパンを口に放り込み、ぬるいミルクで流し込んだ。


「マリー。ちゃんと噛んで食べないと大きくなれないわよ」


「……はあい」


母親に説教をされ、マリーは小さくちぎった黒パンをもそもそと噛み、飲み込む。

やっとの思いでパンを食べ終えてミルクを飲み終え、手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


「わうわうわぅわうわ」


ミルクを飲み終えた真珠も言う。


「マリーも真珠もよく食べました。偉いわ」


母親に褒められたマリーと真珠は視線を合わせて微笑んだ。

そうだ。母親に父親と『歌うたいの竪琴』の店主の喧嘩について知っているか尋ねてみよう。


「お母さん。あのね。『歌うたいの竪琴』という酒場を知ってる?」


カウンターから出て真珠がミルクを飲み終えた木皿を手にした母親にマリーは問いかける。


「知ってるわよ。うちにずっと、お酒をおろしてくれていた酒場なの。そこの店主とお父さんは親友だったのよ」


親友だった。過去形だ。きっと今は親友ではないのだろう。

それは、クレムの記憶にあったという喧嘩のせいだろうか。


「私『歌うたいの竪琴』の息子のクレムと知り合って、それでお父さんとクレムのお父さんが喧嘩をしたって聞いたの」


「そう……。お父さんと『歌うたいの竪琴』の店主のダリルさんが喧嘩をしたのはお母さんのせいなのよ」


「え……っ!?」


若い頃、母親をめぐっての三角関係だったとか……っ!?

マリーは乙女ゲーム的な展開を予感して目を輝かせた。


「お母さんが、夜はマリーの看病に専念したいって言ってね。それで、食堂に宿泊客以外のお客さんを入れるのは昼だけにしようっていう話になって」


マリーのせいだった!!

ミーハーな気持ちで乙女ゲーム的な恋愛模様を期待したことを反省する。


「だったらお酒を仕入れるのはやめようっていうことになったの。マリーが元気になった時に仕入れを再開したいって言ったみたいなんだけど『勝手なことを言うな』と言われて喧嘩になったみたい。そうよね。だって、うちが仕入れるはずだったお酒が余ってしまうもの。突然、お酒の仕入れをやめて、いつになるかわからないけれどまた仕入れたいなんてそんな都合のいい話が通るわけがない」


そう言って俯く母親を見つめて、マリーは口を開いた。


「お母さん。私、『歌うたいの竪琴』の店主さんに謝りたい。だって、お酒の仕入れを止めることになったのは私が病気になったせいだもの」


「マリーはそんなこと気にしなくていいのよ。病気は誰のせいでもないの。マリーは悪くないのよ」


「お母さん。『歌うたいの竪琴』の店主さんに謝って、またお酒をおろしてもらえるようにしようよ。お父さんと親友のダリルさんに仲良しに戻ってもらおう」


母親はマリーの言葉を聞いて少し考えた後、肯いた。


「そうね。今なら酒場の営業時間だし、私が『歌うたいの竪琴』に行ってくるわ。ダリルさんとは話をしたいと思っていたの。『銀のうさぎ亭』を……」


母親はそこまで言って言葉を飲み込む。

『銀のうさぎ亭』を出て行く前にと言おうとしたのかもしれないとマリーは思う。


「お祖母ちゃんに声を掛けてくるわね」


母親は真珠とマリーが食べ終えた食器を重ねて持ち、カウンター奥へと姿を消した。

母親を見送ってマリーは真珠に視線を向ける。


「真珠。お母さんが一緒に来ちゃダメって言ってもついていこうねっ」


「わんっ」


マリーと真珠は気合を入れて、母親が戻ってくるのを待った。


***


若葉月9日 夜(5時15分)=5月5日 14:15



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