第132話 淡月

 シーラとドゥシュナン、母子おやこ二人で夕餉ゆうげを取る。

 エキメキ細長いパンをちぎり、エトゥリノフット羊肉とひよこ豆のシチューを付けて口に運ぶ。

 ドゥシュナンの10歳上の兄は結婚して畑を持ち、近くに住んでいる。

 三つ上の19歳の姉も何年か前に結婚して、今はルトフで暮らしている。先日、二人目を出産したとシーラの元に連絡がきた。


 外から虫たちの求愛が聞こえる中、つぶれた球のようなガラスランプが辺りを柔らかく照らしだす。三日月のように曲がったアームからぶら下がったその光が、黙々とエキメキを口に運ぶ母子おやこの影をぼんやりと静かに壁に映しだしていた。


 このランプは父から母へ、まるで献上品のように贈られたものだった。集落で一番の美人とうたわれていた母に父が必死に求婚したのだ。同時に「あんなにしおらしかったのに今ではよお……」などと、生前の父がぼやいていたこともある。

 そんなことを何となく思い出していたドゥシュナンにシーラが問う。


「あんた、どうすんだい?」

「……え?」


 何気ない口調に、何気ない反応。


「今日あんたんとこに来てたのは、デニズヨルのお偉いさんだろう?」

「うん」

「それであんたを連れ戻しに来た」


 ドゥシュナンは口に含んでいたエキメキを喉に通す。


「……うん」

「で、どうすんだい?」


 ここまで聞いて、ドゥシュナンはようやく母が何を聞いていたのか理解した。


「どうもしないよ」

「どうして?」


 彼は返答に困り、押し黙る。室内には虫の音だけが聞こえる。


「町のお偉いさんが、あんたが必要だって頭下げてお願いしにきたんだろう? 愉快なことじゃないか」

「うん、でも駄目なんだ。恐くて」

「恐い? 何が?」


 思えば母とこうした話をするのも初めてかもしれないと、ドゥシュナンはおぼろげに思う。しかし、シーラの顔はいつも通りだ。意図してのことか、取るに足らないことなのか。

 ドゥシュナンはうつむき加減に言う。


「仲間に裏切られることが。みんなが死ぬことが」

「あんた、随分と下らないことを恐がってるんだねえ」

「……く、下らないこと?」

「そうだよ。とても下らないことだ」

「どこが下らないことだって言うの? 僕の判断で人が沢山死ぬことだってあるんだよ!?」


 思わず声を荒げたドゥシュナンの視線の先。ランプに照らされるシーラの表情は、しかし、先ほどまでよりも幾分か柔らかい。


「じゃあ、あんたは助けてって言ってる人を助けないで、そのまま放っておくのかい? 助けてって言っている人を何もしないで見殺しにするのかい? 助けた人間が裏切るかも知れないからといって、何もしないのかい?」

「……」

「道理を知っている人間なら、たとえ助からなかったとしても、何かしてくれた人間に感謝はするものさ。ま、多少は変なのがいるかも知れないが。逆に何もしてくれなかった人間への恨みは、それはひどいもんだろうね。で、あんたはどっちになりたい? 裏切りや悪口、失敗を恐れて助けない奴か、そんなことお構いもなしに助ける奴か。……あんたはエマネツの子供だから言うまでもないことだろうが」


 彼女は薄っすら笑っているようにも見え、反対の彼は黙考もっこうする。

 その通りだ。母に言われるまでもなく、答えなど決まっていたのだ。

 会話はその始まりと同じように何気なく終わり、控えめな虫の鳴き声に囲まれながら夜は更けていった。


「イーキンさん、お早うございます」


 翌日、ドゥシュナンはデニズヨル北町の衛兵詰所にイーキンを訪ねた。彼は目を丸くしていたが、「おはよう」と挨拶を返し、頭から足元までドゥシュナンを見定めた後に、「もう、いいみたいだね」とにこやかになった。

 ドゥシュナンは「はい」と朗らかに答え、続けて「僕に何かできることはありますか」と問う。


「それについては、私以上に聞いて欲しい人がいるんだ。これから一緒に行こう」


 イーキンはそう言ってドゥシュナンを連れ、イキレンキ海峡で分断されたデニズヨルの南北を結ぶ渡し船に乗り込んだ。

 イキレンキ海峡は最も幅の狭いところで700メートルに満たないとはいえ、東の銀の海と西のアイナギビ海を結ぶ海である。基本的には穏やかだが、潮の流れが速い部分もある。それは経験を積んだ船頭と漕ぎ手が必要になるということなのだが、一部の悪質な渡船業者がほとんど経験のない者に船を操らせ、年に十数回は死亡事故が起きていたのだ。

 だが、それも過去の話になろうとしていた。ドゥシュナンの提案により、渡船業者のうち、特に事故の多い小さい荷物や人の運搬を担う小型船を運用していたものを水夫ごと買収して町による運営とし、熟練者による研修と船の管理を徹底したのだ。同時に無許可での人員渡船を禁止した。

 これを看板等の他にデニズヨルの住民にあまねく説明したことで、2ヶ月前に導入して以降、事故は1件も起きていない。


 そしてもう一つ。


 イーキンとドゥシュナンが、旧バルクチュ屋敷の旧主寝室に辿り着いたとき、中ではエンダー・バルクチュとセルハンが書類仕事にいそしんでいる最中だった。二人はそれぞれ机を二つ繋げた席で、方や羽ペン、方や鉛筆を握って書類と向き合っている。

 そのセルハンが握っている鉛筆。この開発が早く進んだこともドゥシュナンによるところが大きい。

 もう3ヶ月も前の或る日のこと。セルハンが唐突にエンピツなるものが欲しいと言い始め、それはどんなものかとドゥシュナンが尋ねれば、真っ直ぐな木の棒の中に黒くて細い棒が入っていて、その黒い棒の部分で紙に字を書くことが出来るという。

 それを聞いたドゥシュナンはすぐに石墨せきぼくが頭に浮かんだ。町の職人に石墨せきぼくを棒状に加工し、木で挟んだものを作らせてみたが、セルハンはこれではないと言う。何が違うのかとよくよく聞いてみれば、黒い棒は真っ直ぐな円柱状で、柔らかいものもあったというのだ。

 そこでドゥシュナンがまた閃いた。石墨せきぼくを何らかの方法で粘土と混ぜ合わせ、形を整えた上で焼いているのではないかと。そしてエンピツが売れると確信して、議会に研究開発と工場を作るための仮の費用を認めさせた。

 結果、たった2ヶ月あまりでセルハンが満足する鉛筆の試作品が完成し、軍隊の担当だったはずの彼は見事、エンダーの書類仕事の手伝いに狩りだされてしまったのである。それにはもちろん、セルハンの読み書き算盤の能力が南部の者には珍しく、更にデニズヨルの高給役人並みに高いという事情もあったのだが。


「セルハンさん、お久しぶりです。エンピツ、完成したんですね」


 書類とにらめっこをしていたセルハンはドゥシュナンを一瞥いちべつし、手近なものを紙の上に置いた後、再びドゥシュナンの顔を見た。


「久しぶりだな。鉛筆はこの通りだ。売り物になるまではまだ時間がかかりそうだが、悪くはない。お前のお陰だよ。ありがとう」

「お礼なら僕じゃなくて職人さんたちに言ってください。あの人たちの技術が凄いんですよ」

「そうか。ところで今日はこんなところまで何の用だ? 代表の仕事はやらないんだろう?」


「こんなところまでとは随分な言い草だの」


 エンダーも向かい合っていた書類の区切りがついたのか。悪戯っぽい笑みを浮かべながらセルハンに小言をぶつけた。それに合わせてドゥシュナン、イーキン、セルハンの3人の視線は、自然と声のした部屋の奥、福々しい白髪の老人へと向かう。


「久しぶりだの、ドゥシュナン君」

「ご無沙汰してます」

「君がここに来たということは、儂はもう代表から退いてもいいんかいのう?」

「あー、うー、それは」

「はっはっは! 冗談だよ、冗談。長く商売をやっているとイネキにも多くの親しい友人が出来る。其奴そやつらから聞く話とセルハン殿とイーキン殿から聞いた話から思うに、君は責任を負う重さに気が付いて、一気に疲れてしまったのではないかと、この老いぼれは思うのだよ」


 老人はくりくりとした愛嬌のある目を一瞬だけ開いて、言葉の最後に問いかける。


「どうかね? 当たっているかね?」


 おおよそは当たっているが、人の生き死にに関わる判断をしたくないのだとドゥシュナンは思った。しかし、老人は答えを待たなかった。


「だから君を代表に戻そうなどとは、これっぽっちも思うておらんよ。儂の、というか、町の代表の相談役兼補佐を頼みたい。特に書類仕事の、な。そうすればセルハン殿を軍の専従にできるし、君も人の生死に関わるような決断をしなくとも済む。決断をし、責任を取るのはあくまでも議会と儂。どうかの? もちろん、給金は弾むぞ」


 ドゥシュナンは、元より手伝えることがないかと尋ねに来たのだ。自分の能力が必要だと言われて手伝う心づもりでいたのだ。

 懸念事項をすべて払拭するようなエンダーの要請を断る道理もなく、彼は笑顔で頷いた。


「さて、早速だが、この後デニズヨルはどうすれば良いか教えてくれんか? カシシュ家に従属するか、王子に従うか」

「……僕の意見としては、そのどちらでもありません。カシシュ家に従属するのは論外ですから、アルテンジュ王子に協力するのが良いかと思いますが、それは従うのではなく、あくまでも対等な関係が望ましいでしょう」

「対等な関係とな? 相手は王家だぞ? 出来るのかの?」

「出来ますよ。あちらには海がないので」

「そうか、デブラーチェニスの海軍を材料にするのか。確かにギュネシウスの海軍に比べれば些細な戦力ではあるが、陽動くらいはできそうだの」

「陽動だけではなく、攻撃も加えられますよ。と言っても、ダルマク族とアバレ家、それにグンドウムの南方に住むウチャン族の協力を得られればの話ですが」

「デブラーチェニスの海軍も、そのいずれも大砲を何門も積んだ大型艦船は持っていないと思ったが、どうやって対抗するのだ?」

「それについては――」


 ドゥシュナンは昨日までの臆病な気持ちがなかったように、エンダー、セルハン、イーキンと今後のことを話し合い、気付けば空には淡く、そして柔らかく光る二日月ふつかづきが浮かんでいた。

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