第11話 かもしれない
そう話してまた数十秒ほど口を噤んでいたのだが、その唇が目に見えて戦慄き始め、凛とした双眸に一気に涙を溢れさせた。
「僕、もしかしたら人を殺してるのかもしれないと思って……」
言いながら、少年らしい白桃の頬を後から後から大粒の涙が伝い流れる。
羽藤の中性的な尖った顎から涙が滴って、パタパタ音を立てていた。
「……かもしれない?」
麻子は静かに問いかけた。
唐突すぎる告白を、鵜呑みにすることはできないが、頭から信憑性を疑うようなニュアンスが伝われば、患者は心を閉ざしてしまう。
だから、それが本当か嘘かの判断を持ち込まず、カウンセラーは傾聴する。
ただ、麻子が不審に感じたのは、羽藤自身、確信が持てずにいることだ。
だから、殺しているかもしれないと考え始めた理由の方が、診療の場では主訴となる。そのため、殺しているのかいないかではなく、なぜ『そう思ったのか』に焦点を当てて面談をする。
麻子は嗚咽する羽藤の興奮が鎮まるのを待ってから席を立った。
面接の最中に泣き出す患者も多いので、壁際のスチール棚にはティッシュも常備されている。そのティッシュの箱を持って戻り、「良かったら使って」と、羽藤に勧めた。
「僕……。時々記憶がなくなることが結構あって……」
羽藤は素直にティッシュで顔を拭いながら、ぐずぐず洟を啜って答える。
物心ついた頃から、自分で買った覚えのない菓子やジュースのレシートが財布に入っていたりする。その場合、財布に入れていた金もレシートの金額分だけ、ちゃんと減っているという。
また、学校の友達とした覚えのない喧嘩をしている。
覚えていないと訴えても、大抵そっちから手を出してきたと友人達に反論され、シラを切るのかと責められる。
そんな記憶障害は年々深刻さを増していて、最近は行ったこともない居酒屋のチェーン店で飲食している所を見たという知人から、飲酒を
もう限界だ。自分はどうなってしまうのか。
周囲には距離を置かれて白い目で見られ、不安と苛立ちで爆発しそうになっていた。そんな時、テレビで多重人格障害者をテーマに描いたハリウッド映画を観たという。
「その映画の主人公が僕にそっくりだったんです。買った覚えのない服がクローゼットに掛けてあったり、全然知らない人達が、急に恋人だって言ってきたり……」
だから自分も多重人格なのではないか。
そう思って受診に来たと、羽藤は鼻の下をティッシュで押さえながら小声で答えた。
「わかりました。ありがとうございます」
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