美崎さんのほうが心配だったから

 初めて彼と出会ったのは私が高校生だった頃。

 彼とそのご家族が隣の家に引っ越してきて、通学時に顔を合わせる機会が多かったこともあり、すぐに親しくなった。

 もっとも最初から恋愛感情があったわけではなく、出会ったばかりの頃は本当に弟のような印象しかなかった。

 それが変化したのは私が大学を卒業して社会人になったばかりの時。

 当時、私は職場の上司から陰湿なパワハラを受けていて、セクハラこそなかったものの、強いストレスを感じていた。

 両親に相談しても、「一年目は大体そんなものだから今は我慢すべき」の一点張りで、私の精神は徐々に追い詰められていった。

 けれど彼にそのことを打ち明けると、真摯に耳を傾けてくれて、私が立ち直るまで繰り返し励ましの言葉をかけてくれた。


「そんな奴の言うことなんか気にすることないよ! 美崎さんはなにも悪くないんだから自信を持って! それにこれはお世辞で言ってるワケじゃないけど、俺が今まで出会った人の中で、美崎さんほど尊敬出来る人はいないよ」


 それを聞いて、私は奈落の底で救いの手を差し伸べられたような心地がした。

 自分を肯定してくれる言葉が、こんなにも嬉しいなんて、生まれて初めての経験だった。


「これからも辛いことがあった時は遠慮せず俺に言っていいよ。俺みたいなガキじゃ頼りないかもしれないけど、どんな時でも美崎さんの力になるから」

「うん……ありがとう、あっくん」


 いつしか私は、今まで弟のようにしか見ていなかった彼のことを、無意識のうちに異性として意識するようになった。

 ただ生まれてこのかた人を好きになったことが一度もなかったので、自分でもこの気持ちがなにを意味しているのかよくわからなかった。

 彼が同じ大学の女性の話をした時、なぜか胸がモヤモヤしたけれど、その理由は自分でもわからなかった。

 そんなある日、彼に対する好意をはっきり自覚するきっかけとなった出来事が起こった。

 その日は上司があるミスを犯して、取引先の会社に損失を出してしまったのだが、それをあろうことか私のせいにしたのだ。

 私が抗議しようとすると、相手はひたすら罵詈雑言を浴びせることで言論を封じてきた。

 立て続けに「お前が悪い!」「口答えするな!」「お前にこの仕事をする資格はない!」などの個人攻撃を受けて、私の精神は限界まで追い詰められた。

 今までのパワハラも十分酷かったが、正直これには耐えられなくて、まだ入社して日が浅いけれど、本気で職場を去りたいと思った。

 その後は家路につくまで、半ば放心状態で仕事をこなした。

 覚束ない足取りで帰り道を歩く中、ふいに頭に思い浮かんだのは彼の顔だった。

 私がどれほど彼を心の支えにしていたか、その時初めて自覚して、猛烈に会いたい気持ちでいっぱいになった。

 ところが急いで家まで辿り着くと、彼はこう言った。


「ゴメン、これから明日までに大至急レポートを仕上げなきゃいけないんだけど、美崎さんどうかしたの?」


 あまりのタイミングの悪さに、落胆を禁じ得ない。

 そばにいて欲しい気持ちもあったけれど、自分の都合を押し通せば彼に迷惑をかけてしまう。それだけは避けたくて、私は咄嗟に嘘をついた。


「ううん、なんでもないの。レポート頑張ってね」


 必死に平静を装って見送ったはいいものの、家に入って扉を閉めた途端、彼が恋しくてたまらなくなった。

 これから明日まで会えないのかと思うと、胸が張り裂けそうな思いがする。

 なにもする気力が起きず、しばらく玄関にしゃがみ込んでいると、ふいに玄関の呼び鈴が鳴り響いた。


「美崎さん、いるー? 俺だけど……」


 一瞬、空耳かと思った。

 そんな……噓……だって彼は……。

 扉を開けた先に立っていたのは、今この時間、ここに居るはずのない人物だった。


「あっくん……どうして?」

「さっき様子が変だったから気になって来てみたんだ。レポートはまだ終わってないんだけど、まあ美崎さんのほうが心配だったから。『どんな時でも力になる』って前に言っただろ? ――って、どうしたの美崎さん?」


 気がつくと私は彼の胸の中に飛び込んでいた。


「ううぅ……あっくぅん……」


 自分を犠牲にしてまで駆けつけてくれたのが嬉しくて、涙が止まらなかった。

 子供のように泣きじゃくる私に戸惑いつつも、彼はなにも言わずに優しく慰めてくれた。

 まるでなにも訊かなくてもわかっているとでも言うように。

 彼が慰めてくれるだけで勇気が湧いてきて、上司の酷い言葉や会社を辞めたいという思いが、跡形もなく消え去るのを感じる。

 その時初めて、この気持ちが恋だとハッキリわかった。

 翌日、私は思い切ってパワハラの件を会社に報告した。

 ちゃんと取り合ってくれるか不安だったが、運良く上司は厳重注意を受けて、それ以降私に近づかなくなった。




 それ以降、私は彼に受けた恩を返したくて、今まで以上に家事や身の回りの世話を焼くようになった。

 もっとも、理由の中には彼ともっとお近づきになりたいという下心も含まれていたが。

 しかし思いがけず口を滑らせて告白してしまった時、つい焦って否定したことが、すべてを狂わせた。

 おかげで彼は他の女の子と付き合うこととなり、私は自らチャンスを棒に振る形となった。

 最初は確かに悲しかったけれど、初めて彼女が出来て幸せそうな彼の姿を見たら、自然と諦めがついた。

 もし別れるようなことがあって彼が悲しむよりは、大人しく身を引いたほうがいいと思ったから。

 だから彼女に裏切られて彼が深く傷ついた時には、本当に大きなショックを受けた。

 他に恋人が出来た時よりも、その時のほうがずっと悲しくて、彼が立ち直ってくれるならなんでもする。彼が私にしてくれたように――そう思った。

 とは言ったものお、まさかあんな大胆な行動結婚に出るとは、自分でも予想がつかなかった。

 まあ結果的には彼が立ち直ってくれたから、その点ではよかったと思う。

 いずれこの件について彼と話し合うことになるだろうが、どんなことになっても彼のそばにいたいと思っている。




「あら?」


 パーティーを終えて自宅でくつろいでいると、彼の家にハンカチを忘れたことに気づいた。

 慌てて取りに戻ると、図らずも扉の前に立った途端、中から彼と彼の姉である紗月さんの話し声が聞こえてきた。


「それで、どうやって麻由香さんを傷つけずに別れ話を切り出すの?」

「だからそういう誤解を招く言い方はよせって!」


 その直後、私は呼び鈴を鳴らそうとする手を止めて、自宅に引き返した。

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