ねえお願い、手を貸して?
「あっくん、お塩取ってくれる?」
「ああいいよ、ハイ」
俺は自由なほうの左手で、そばにあった塩入を持って麻由香さんに手渡した。
姉のせいで片方の手を手錠で繋がれた俺達は、お互い協力して食事をすることにした。
例えば今のように、麻由香さんの届かないところに塩入があれば、俺が取ってあげたり、
「はいあっくん。あーん♪」
「う、うん……」
あるいは
同じフォークを使用しているので、食べる毎に間接キスしていることになるのだが、段々と感覚が麻痺して気にならなくなってきた。
まあ一応、新婚夫婦ということになっているのだから、別に問題ないのかもしれないが。
「紗月さんの料理美味しいね」
「そうだな、高級食材しか使ってないから美味しいのは当たり前だと思うけど……」
むしろこれで不味いものを作れる人がいたら是非お目にかかりたいものだ。
一方、その姉はというと、俺達の苦労も知らずにソファーで呑気に眠りこけている。
「ハア……ゴメンな麻由香さん。うちの姉のせいでこんなことになって」
「ううん、いいの。数時間くらいなら私は全然平気だよ。むしろ好きな人のそばにずっといられて凄く幸せだもん」
「そ、そう……」
「そうだ! どうせなら今度は口移しで食べさせてあげよっか?」
「いやいやいや! それはさすがにマズいでしょ!」
「ふふふ、冗談だよ」
「はぁ……」
不覚にもドキドキしてしまった。
「あっ、大変!」
ところがその時、麻由香さんが手に持っていたフォークから、カルパッチョのソースがこぼれて襟の隙間から服の中に入り込んでしまった。
慌ててそばにあった布巾で拭こうとするが、片手では上手くいかない。
「やだ、このままだとシミが出来ちゃう……あっくん、ちょっと悪いんだけど、襟のここんところを軽く引っ張ってくれない?」
「……え?」
それはつまり襟を引っ張って広げろということ? でもそんなことすれば彼女の豊満な胸元がはだけることに……。
「ねえお願い、手を貸して?」
いや迷っている暇はない。緊急事態なのだから助けてあげねば。
……この決断に少なからず下心が影響していることは否定出来なかった。
「わ、わかった。じゃあいくよ?」
麻由香さんが拭き終わるまで、なるべく彼女のほうを見ないように襟を引っ張ってやった。
間接キスには慣れても、これには慣れる気がしない。
「ゴメンね、あっくん。迷惑かけちゃって」
「別に、お互いさまだから」
「ううん、そのことじゃなくて一昨日、私達が勢いに任せて結婚しちゃったこと。そのせいでこんなにバタバタしちゃってるでしょう? だから、やっぱりあんなことしたのはマズかったかなぁって思って……」
「ああ、そのことね」
マズいもなにも、自分で言うのもなんだが、交際期間ゼロでいきなり婚姻関係を結ぶなんて相当非常識だと思う。
「とは言え、そもそも役所に行こうって言い出したのは俺なんだし、麻由香さんだけが悪いんじゃないよ」
しかしこの口振りからすると、麻由香さんも俺と同じで、異常な状況下で結ばれたカップルが長続きするとは考えていないんじゃないのか。
だったら今日が誕生日だと知る前に、俺が話そうとしたことを今話してもいいのでは?
そう考えて口を開きかけた瞬間、思いがけず先に麻由香さんの話が始まった。
「ねえ覚えてるあっくん? いつだったか私が口を滑らせてあっくんに『好き』って言っちゃった時、慌てて『家族みたいなもの』って誤魔化したこと、あったよね?」
「ああ覚えてるよ」
「なんで咄嗟にあんな嘘をついたのか、今でもよくわからないの。だってその後すぐにあっくんが他の女の人と付き合うようになったから……あの時、ちゃんと自分の気持ちを伝えていれば、付き合うのは私だったかもしれないって思うと、本当に後悔した。だから居酒屋であっくんに結婚しようって言われた時、突然過ぎるとは思ったけど、私も強く反対しなかったの。もう怖じ気づいて後悔するよりは、例えどんなことがあっても突っ走ったほうがいいと思って」
「麻由香さん……」
俺が彼女と付き合っている時に、そんなことがあったとは。
実を言うと俺も、初めて麻由香さんと出会った時から、なんとなく異性として意識していたのだ。
いつも自分を気にかけてくれる、美人なお姉さんとくれば、男なら誰だって惹かれるに決まっている。
ただ家族みたいなものと言われてから、脈はなさそうだと思ったから、俺はなるべく麻由香さんにそういう気持ちは抱かないようにしていた。
俺がもっと早く麻由香さんの気持ちに気づいていれば……。そう考えて俺は激しい後悔に襲われる。
果たして一時的にでも婚姻無効にするのは本当に最善の策なのだろうか。
「どうしたの麻由香さん、さっきから様子が変だけど?」
「う、うん……ちょっと……」
食事後に二人で他愛のない会話をしていると、麻由香さんがなにやら急にソワソワし始めた。
顔は俯きがちになり、恥ずかしそうに頬を赤らめて、脚をモジモジさせている。
あれ? っていうか、これってまさか……。
「あの……ごめんなさいあっくん。さっきミモザを飲み過ぎたせいで、その……お手洗いに……」
「…………」
恐れていたことが現実になった。
手錠で繋がれている為、必然的に俺も同行しなければならない。
このような事態を防ぐ為、極力水分を取らないように注意していたのだが、人間の新陳代謝には逆らえなかったようだ。
麻由香さんが用を済ませる間、俺がすべきことは目を閉じて、ヘッドホンで音楽を大音量で聞いてなにも見聞きしないようにすることだ。
それと隣で麻由香さんがなにをしているか想像しないこと。
先ほど「好きな人のそばにいられて幸せ」と言っていた麻由香さんだが、果たして今も同じ気持ちだろうか?
「待てよ……ということは風呂に入る時も一緒でないといけないのか……?」
リビングに戻った途端、俺は心の中で思っていた疑問をそのまま口にした。
恐る恐る麻由香さんのほうを見る。
「私はいいよ、あっくんとなら一緒でも。なんなら二人で洗いっこする?」
「えっ!?」
思いも寄らない発言に、自分でも気づかぬうちに声が裏返っていた。
「だって片手だと背中とか洗いづらいし、相手に洗ってもらったほうがいいでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
麻由香さんのあの豊満な
しかし夫婦だから問題はないのだろうか。
考えてもみろ、麻由香さんは女性だぞ。きっと一日でも身綺麗にしないと我慢出来ないはず。
ならばじっくりと丹念に洗ってあげるのが“夫”の務めというものだよな……。
この決断に少なからず下心が影響していることは(以下略
「あっ、でも……」
ところがその直後、麻由香さんがなにか思い出したようにこう言った。
「手錠をしたままだと服が脱げないんじゃ……」
「あ」
根本的なことに考えが及んでいなかった。
結局、俺達は数十分後に姉が起きるまで、ただのんびりと待つしかなかった。
ホッとしたような惜しいことをしたような……。
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