Day9 神隠し
先月の半ばのことだ。化学部のカナコ先輩が全校集会中の壇上、まさに皆が見ている前で消えたので、神隠しだと大騒ぎになった。
それが神隠しなんかではなく、先輩が自ら開発した「透明になる薬」を服用したせいだと知っているのは、たった二人しか部員がいなかった化学部部長である彼女の、唯一の後輩だったぼくだけだ。
「皆をあっと言わせたい」というカナコ先輩の虚栄心は一瞬満たされたようだが、その代償は大きかった。透明になったまま、先輩は一向に元に戻らない。本人も素直に助けを求めるのには抵抗があるらしく、しかし一切誰にも構われないのは辛いと見えて、ときどきぼくの肩をトントンと叩く。唯一事情を知っているのがぼくだけだからだ。
叩かれた方を振り返り、目を細めてじーっとよく見ると、人間の輪郭がうすぼんやりと見える。それが今のカナコ先輩だ。三日ほど前までは声もかすかに聞こえていたのだが、もうぼくの耳には完全に聞こえなくなってしまった。叩かれる感触も弱くなってきているから、たぶんそのうちカナコ先輩がどんなにぼくの肩を叩いても、ぼくは気づくことができなくなるだろう。
ここで発奮したぼくが、先輩のために透明化を解く薬を作り始める……とかならいかにも青春小説っぽくていいのだが、正直ぼくにはその気がまったくない。
確かにカナコ先輩はすごい人だった。なにせ、自力で透明化の薬を作ってしまったのだから、大変な才能を持った人には違いない。
だが、それ以外ははっきり言ってカスだ。唯一の後輩であるぼくを無駄にパシり、でかい態度をとり、まぁぼくも極度に「いい人」を演じてしまうのでよくなかったのだが――なにせカナコ先輩には友達がひとりもいなくて、放っておくとものすごく寂しそうだったものだから――しかし先輩が透明になってからというもの、めちゃくちゃ楽だということに気づいてしまった。先輩のワガママに振り回されない生活が、こんなに快適なものだったとは。
というわけで、ぼくは先輩を元に戻そうとは思わない。というかすでに化学部は廃部になっていて、ぼくはボードゲーム研究会に入り直し、そこで結構楽しくやっているのだ。カナコ先輩には悪いけれど、ぼくは以前の生活に戻る気はまったくない。
透明だし声も聞こえないので、先輩が怒っているのか泣いているのか、それとも精神が崩壊して呆然としているのか、さっぱりわからない。しかし何にせよぼくはもう、ぼく自身の高校生活を取り戻すと決めたのだ。
カナコ先輩の姿は日に日に薄くなり、しかしぼくの肩を叩く感触はなかなか完全には消えない。この期に及んでまだぼく以外の人間にコンタクトをとった様子がないというのが、頑なと言おうかめんどくさいと言おうか、まぁ、カナコ先輩っぽいなという気はした。
ところが今週、事件が起こった。「カナコ先輩」が学校に復帰したのだ。
何でも何十キロも離れた街で発見され、失踪していた間の記憶はなく、ただぼんやりと楽しかったことだけは覚えているという。制服の上に白衣を着てぼくの前に現れた「カナコ先輩」は、確かに以前とまったく同じ先輩に見えた。
でも違う。違うということをぼくだけが知っている。本物のカナコ先輩は、もうすっかり空気みたいになっているけれど、ぼくの斜め後ろにいて、必死でぼくの肩を叩いているのだから。
「化学部、私がいなくなって潰れちゃったんだってね。迷惑かけてごめんね」
しおらしく頭を下げる「カナコ先輩」は、姿や声こそそっくりだけど、本物とは全然違う。本物のカナコ先輩なら、こんな風にぼくに謝ったりしないはずだ。絶対に自分の非を認めたり、格下の相手を気遣ったりなんかしない。そういうひとだ。
「カナコ先輩」はその後、もう一度化学部を立ち上げ直した。手ずからチラシを配って新入部員を募り、今では部員が二桁に増えた化学部で、楽しそうに活動しているらしい。友達もでき、今やみんなの人気者になっている。
ぼくも化学部に誘われたが、ボードゲーム部が楽しいからと言って断った。新しい「カナコ先輩」と積極的に関わるのは、さすがに気味が悪いからいやだけど、だからといって正体を暴こうという気もない。どう見たって今の「カナコ先輩」の方が絡みやすいし、今のところはぼくに何の害ももたらしていないからだ。
空気みたいになってしまった元のカナコ先輩は、近頃めっきりぼくの肩を叩かない。いよいよ存在自体が透明になってしまったのだろう。そのまま戻ってくる様子もないので、カナコ先輩は一般的には「神隠しに遭ったけど無事に戻ってきたひと」ということになっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます