Day7 引き潮

 引き潮はいつまでも続いた。波打ち際はどんどん遠くなり、砂浜はどんどん広くなった。

 その理由がまだひとつも明らかになっていないというのに、乾いた浜辺に建売住宅が並び始め、そのうちの一軒を夫が勝手に購入した。

 冗談じゃない。ある日突然満潮が始まったら? いつまた海がもどってくるかもしれないのに、そんなところにどうして安心して住めるだろう。

「大丈夫だよ、プロが検査して建てたんだから」

 夫はそういうけれど、世界中の学者が首を捻っている現象がこれからどうなるのかわかる人なんて、世界に誰もいないんじゃないだろうか。そもそも家族で住む家をたったひとり、独断で決めてきたということからして、私には納得がいかない。

 付き合い始めてから今までで一番ひどい口論になったけれど、さおりだってこのアパートは狭いって散々文句言ってたくせにと言われると分が悪い。それに、息子のみなとが産まれてから働いておらず、家計に一銭も入れていないことも引け目に思えてしまう。

 結局私たち一家は、海の建売に引っ越すことになった。場所が場所だけに価格は安い。家計は格段に楽になるのだから……と自分に言い聞かせたけれど、いざ現物を見るとかなり沖の方に建てられていて、また気持ちが沈んでしまう。

 湊はよく熱を出す子で、私たち母子はどうしても家にいる時間が長くなる。もしも家にいるときに満潮が始まって、海が戻ってきたら? あの位置なら、きっと一階は完全に水没するだろう。波が勢いよく叩きつけてきたら、二階にいたって安全かどうかわからない。

 確かに家の中はとてもきれいだし、これまで暮らしていたアパートとは比べ物にならないくらい広い。湊も喜んで家の中を走り回っているけれど、私の気持ちは完全には明るくならない。こうして心配ごとに満ちたまま、私たちの新生活は始まった。

 家自体の住み心地は決して悪くない。ただご近所はちょっと遠い。こんな沖の方に住んでいるのは私たちだけで、皆はもっと元の海岸に近いあたりに住んでいるのだ。

 みんなが「岡崎さん大丈夫かしら」と、こっそり話しているのを私は知っている。悪意ではないはずのその声が、私にはとても負担になるということが、夫には少しもわからないらしい。

 昼間、熱を出してぐずる湊を抱っこしながら窓の外を眺めていると、遠くに海が見える。いつか戻ってきて何もかもを流し、水底に沈める巨大なものが、じっとこちらを見ているように思えてしまう。

 夜になると、空き家ばかりの私たちの家の周囲はひどく暗い。明かりを消して眠ろうとすると、遠いはずの波の音がひどく耳につく。私は眠りが浅くなり、ちょっとしたことが不安になって、いらいらするようになった。

 この家も夫も、湊すらも残して、ひとりでどこかに行ってしまいたい。でも本当に遠くへ行く勇気なんか、私にはとてもない。

 結局息が詰まるような気持ちのまま、私は家族とこの家に暮らしている。


 夕暮れどき、太陽が遠い遠い水平線に沈んでいくのを家の窓から眺めていると、満潮よ早く始まってしまえ、と思うことがある。私は窓の外に手を伸ばして、海に向かって手招きをする。

 最近は湊も私の真似をして、海においでおいでをするようになった。私たちふたりが呼んでいれば、満潮は予定よりも少しだけ早く始まる気がする。

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