第十一話『兄妹未満』
数日後、義明は繁華街の一角に佇む雑居ビルへ赴いていた。
築十数年の真新しい五階建てのビルには、一階が喫茶店、二階が弁護士の事務所、そして三階から五階までが株式会社トワイライトのオフィスとなっている。
刊行物のポスターが並ぶ賑やかな廊下で、義明は編集者の天野と一息ついていた。
「ほれ、一本くらいおごってやろう」
「どもっす」
自販機から取り出した缶コーヒーがぽいっと投げられ、ありがたくキャッチする。一瞬、ブラックと迷ったようだが配慮して微糖のコーヒーにしてくれた。プルタブを開けて、早速ひと口あおった。形式上とはいえ、やはり面接というものは緊張する。終えてから、じっとりと手汗をかいているわ喉が渇いているわでドッと疲れも押し寄せてくる。こればかりは慣れそうもない。
天野もブラックコーヒーを一本購入し、腰に手を当ててぐびぐびと喉を鳴らしながら一気に飲み干す。なんとも豪快な人だ。着こなしたスーツと、首から下げた社員証がなければとても大人に見えないのが玉に瑕だが。
「ぷはぁっ……さて、これでお前は正式なアルバイトになったというわけだ」
「ありがとうございます、これからよろしくお願いします」
立場上、天野は先輩であると同時に正社員だ。バイトの件も口利きしてくれた恩義もあり、義明は彼女に頭が上がらない。ゆえに、彼女に対しては礼儀正しくあろうと心がけるつもりだ。
「おう、頼んだぞ。原稿がちゃんと締め切り前に上がるかどうかはお前の手腕にかかっているんだかんな」
「うす、頑張ります」
原稿が予定通りに上がらなければ、締め切りを伸ばしてもらうことになり出版社などに迷惑をかけてしまうということもあってその責任は重大。しっかりと仕事を果たすべく、義明は気を引き締める。作家である束にとってははた迷惑な話かもしれないが、これも彼女のため。
「んじゃ、今日はもう帰っていいぞ。……あ、そういやまだ連絡先交換してないな。よし、何かあった時にはこっちから連絡するから、各務、ちょっと携帯出せ」
言われてスマホを取り出し、手早く連絡先の交換を済ませると「結目にヨロシク」と告げて天野は仕事に戻っていった。
「……買い物して帰るか」
束ん家の冷蔵庫の中身が心許なくなっていたのを思い出し、そのままスマホでメッセージアプリを開いて束にその旨を伝えてから、手近なエレベーターに乗り込んで足早にビルを後にする。その足取りは心なしか軽やかなものだった。
◆
出版者を出た足で適当なスーパーに立ち寄り買い物を済ませた義明は、両手に買い物袋を下げて束の住まうマンションまで歩いていた。いつの間にやら日が暮れ、辺りはすっかり夕焼け色に染まっている。
「くそ、買い過ぎた……」
気前よく大量に買い込んだはいいものの、ビニール袋がはち切れんばかりの食材や飲料水が相当な重量になっており、持ち手に食い込んだビニールのせいで指が悲鳴を上げていた。ついでに腕と肩も仲良く絶叫している。
重荷にもめげず、よたよたとマンションに向かう最中、ふとエントランスの入口に見覚えのある人影が立っているのが見えた。
「そんなに買い込んで、ひとりで鍋パーティでもする気なの? ――兄さん」
物怖じしない凛とした声色は義明にとって聞き馴染みのあるものであり、同時に、苦手意識を覚え気後れしてしまうもの。
予想外の人物の登場に呆気にとられる義明。
彼の前に立ち塞ぐのは、すらりとした長身が特徴の少女だ。猛禽類を彷彿とさせる鋭い切れ長の瞳、どことなく既視感のある制服から伸びる肢体は細くそれでいて力強さを感じさせ、ほどよく健康的に焼けていた。腰まで伸ばした茶髪は夕焼けに染まっていても艶やかであるのがわかる。
彼女の名前は
「な、なんでいんだよ」
うろたえ、たたらを踏む義明を見て、里香は然して興味もなさそうに淡白な口調で答えた。
「この間、偶然ここを通りかかった時に見かけたから、この時間に待ってれば来るんじゃないかと思っただけよ。……なにか都合の悪いことでもある?」
「んなことねーよ」
「そう」
バツが悪そうに義明は視線を逸らす。里香のほうも追求する気はないらしい。あまり根掘り葉掘り聞かれないのは不幸中の幸いか。
「それで、なんか用か?」
「なに? 理由がないと会ってもくれないの?」
「そんなこと言ってないだろ」
「……別にいいけど」
お互いにぶっきらぼうで素っ気ない物言いではあるが、別段、怒っているわけではない。里香がぶっきらぼうな口調なのは今に始まったことじゃなく、初めて会った時からこうだった。義明はといえば、ただ単に気まずい上に距離感を測り兼ねているのが理由だ。
目に見えて居心地の悪そうな義明を察して、里香は気づかれないほど小さく嘆息して言う。
「母さんと父さんが『たまには帰ってこい』って。それだけ」
「…………気が向いたらな」
気の進まない義明が曖昧な返事を返すと、里香も薄々それがわかっていたようで怒ることも残念がることもなかった。ハナから期待などしていなかったのだから、当然といえば当然だ。
「……そういえば、この間の女の子は?」
これ以上の催促は無駄と判断したのか、里香が話題を変えてくる。
できれば触れられたくない、なんとも答えにくい問いかけに義明はたっぷり十数秒も逡巡して口を開く。
「バイト先の子だ」
間違ってはいない。適切でもないが。
「ふーん、彼女かと思っていたのだけれど」
「……そんなんじゃねーよ」
勘ぐられては堪らないとばかりに顔を背ける義明を、里香はある程度察して深く追求しようとはしなかった。勘が良い上に聡いのが各務里香という人間だった。
会話が途切れ、もどかしい静寂のなか立ち尽くす。里香とてそれは同じらしく、ローファーのつま先でとんとんと地面をつついていた。
「……そろそろ帰るから」
やがて、里香がおもむろに切り出すまで言葉が交わされることはないまま、彼女は最後まで素っ気ない声音で踵を返す。
「あ……」
すっとした彼女の背中がどこか寂しそうに思えて、義明はつい声を漏らした。気づいて、小奇麗に整った顔が振り返る。
「ん、どうかしたの?」
「あぁ、いや……気をつけて帰れよ」
咄嗟について出たのは、なんでもない言葉。
それでも、彼女は少し驚いたような顔をして、
「……ええ、兄さんも風邪とかひかないように」
ほんのちょっぴり、一瞬ではあったものの――この時、義明は初めて里香の微笑みを目にした。
「それじゃ」
振り返ることなく、里香は茜色に染まった道へ小さくなっていく。その背中が見えなくなるまで、義明はただ見送る。冷たい風が頬を撫でようとも荷物を持ち続けた腕が悲鳴を上げていようとも、ずっと見送っていた。
「……このままじゃ、ダメだよな」
ひとりごちる。頭ではわかっていたが、やはり気が進まない。過去にがんじがらめにされ、なかなか一歩が踏み出せずにいた。振り払う勇気も、今はまだ。
――いつかきっと、過去の呪縛と真っ向から向き合う日が来る。
漠然とした予感めいたそれはほとんど確信に近い。そして、過去を克服しなければ里香や両親との間にある隔たりが埋まることはないとも理解していた。
里香に会ったことで、強く実感する。いずれ、腹を括らなければならない。その時が来るまでに人間として少しでも成長しておかなければ、今のままの弱い自分では向き合うなど到底無理な話だろう。
新たな決意を胸に義明はマンションへ戻った。
少しずつ、何かが変わっていく。
結目束は拘束したい。 ナナ山ナナ夫 @Nanase215
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