第20話 蚊帳の外
何が起こったのかと祐治が顔を上げるよりも後ろから襟首を捕まれる。そのまま椅子ごと後ろに引きずり倒されながら、祐治はテーブルの向こう側から跳んでくるクリスティーネを見た。短めの剣を振り上げ、そのまま落下の勢いも利用して祐治がまさに座っていたところに突き立てた。
「……本当なの?」
クリスティーネが祐治の後ろに問いかけた。祐治を後ろから引き倒したのはヴィクトリアだった。
「そんなわけないでしょ。この人にそんな芸当できると思う?」
ヴィクトリアは見越していたかのように落ち着いていて、盾になるように祐治の前に出るとナイフを構える。
祐治は本能的に身を退き、壁に背を預ける。こういう可能性は覚悟していたつもりではあったが、そんなものは全く役には立たなかった。どんなに頭の中で決心しても、平和な世界を生きていた人間が死に挑むには断固たる決意と理由が必要なのだ。いきなり殺されかけてすぐ反撃に移れるものではない。
「だったらどうして!?」
「流石に2回も主人を殺されたくないの。端的に言うと、あなたを騙していたのよ」
「そんなのっ……ううん、ヴィクトリアは嘘つきだもんね」
クリスティーネは諦めるように呟き、そして剣を構えた。
「それは知ってたけど……今回ばかりは結構腹が立つし、ウェンツェル様にも恨みはあるし、今更考えるのも面倒くさいし、テオドール様を裏切るわけにはいかないし、私はそのまま続けるよ? 邪魔するなら痛い目見てもしらないから」
「ええ、いいわよ。あなたはそういう人だって知っているもの」
ヴィクトリアはナイフを弄びながら言った。その態度は剣を向けられている者のとは思えない。クリスティーネの剣は小ぶりなものの、それでもヴィクトリアの持つナイフと比べたら刃渡りは2倍以上あるだろう。それは、攻撃のリーチ、つまり戦闘の有利不利に直結する。単純に考えるのなら有利なのはクリスティーネである。だが、ヴィクトリアは微塵もそうは思っていないようだった。
「でも、私には勝てないわよ」
「うるさい!」
クリスティーネが踏み込んで放った一撃を、ヴィクトリアは重心をずらすのに一歩横にずれるだけで、受け流した。次も、次も、次も。大きく避けることも、逆に踏み込み反撃することもせずにただ攻撃を受け流し、または紙一重で避け続ける。
軽く跳躍しただけで会食用の円卓を超えるクリスティーネも、それに反応して成人男性の体を引きずり倒すヴィクトリアも、生半可な身体能力の持ち主ではない。そしてその戦闘の技術も。祐治は手を出すこともできず、目の前で繰り広げられる殺陣を見ながら考えていた。
このクリスティーネというメイドはヴィクトリアと仲がいいはずだ。ヴィクトリアを庇って泣きながらもクソみたいな主人に体を差し出し、それは上辺だけの関係ではないはずだ。それなら、どうして二人が斬り合わなくてはならないのか。こんなことあってはならない。クリスティーネが自分を殺そうとしているとしても、友人同士が剣を向け合うなんてあってはならないのだ。
クリスティーネの剣筋一つ一つは風を切るかの様に鋭く、それでもヴィクトリアのメイド服のフリルにすら掠らない。それが祐治の決心を鈍らせていた。時に美しく響く剣戟の音はまるで何かの楽器のよう。二人はそれに合わせて舞い続ける。見惚れるような可憐な乙女達の剣舞だ。自分に参加権があるとは思えない。
「……どうして反撃しないの? ヴィクトリアならそのナイフでも十分戦えるよね?」
クリスティーネは一歩引くと剣を止め、息を切らせながら尋ねた。それでも剣を下ろそうとはしない。半身になりながら、右手で剣を頭の近くでヴィクトリアに向けて構えている。
「あなたを傷つけるのが私の目的じゃないの。そういう意味ではあなたと同じね」
対してヴィクトリアは両手を下ろし、平然と答えた。避け続けられれば攻める側が先に疲弊するのは当然のことであっても、二人の実力差は大きいのかもしれない。
「目的?」
「そう、私の目的。あの人の企みを砕いてやらないと気が済まないの」
「あの人?」
クリスティーネの気が一瞬逸れた。その隙をヴィクトリアは逃さなかった。
ヴィクトリアが前に出る。散歩の始まりのような、完全に戦闘とかけ離れた一歩だ。しかし、その一歩でクリスティーネのショートソードは逃げるように外側へ向く。そこから2歩、3歩。クリスティーネの間合いの内側に入り込んだ。
「やっぱり傷つけられないわよね。全然太刀筋に殺気が無いんだもの。どうやって痛い目に合わせるつもりだったのよ」
「やっ、やだ、近寄らないで!」
クリスティーネは怯えるように後退りながら剣を構え直し、テーブルにぶつかった。天使の衣装のような純白のメイド服がひっくり返ったステーキのソースで汚される。
「言ったでしょう? あなたは私に勝てないって。お見通しなんだから。ほら、汚れちゃうわ」
ヴィクトリアはナイフを懐にしまうと、剣に軽く押し退けながら近づき、クリスティーネの体を正面から抱き寄せた。
クリスティーネは抱かれたまま、ヴィクトリアを見つめ返した。完全に剣の間合いの中だが、彼女の刃は動かない。
「……どうしてわかったの?」
「だってあなた、私のこと好きでしょう?」
「……今嫌いになりそう」
「ふーん。そうなんだ」
そう言ってヴィクトリアは微かに笑い、平然と、空気を吸うようにクリスティーネの唇を奪った。
「んっ、んんんっ!!!」
そして、蹂躙を始める。飴玉を舌の上で転がすような優しい愛撫は、クリスティーネの心を侵していく。ヴィクトリアの肩を押し退けようとするもすぐに力は抜けたようで、ただのポーズと化す。それは砂糖菓子が唾液に溶かされるように当たり前のことであった。
だがヴィクトリアは責め手を和らげはしない。口に放り込んだお菓子が溶けたのなら後は飲み込まなくてはならない。抵抗が薄くなったのを確認したヴィクトリアの責めをどんどん激しくなっていく。クリスティーネの全てを貪り、奪い尽くすよう口内を蹂躙し続ける。全身の力も抵抗の意思も僅かな主人への忠誠心も全てを奪い尽くように。
クリスティーネの手から剣が滑り落ちる。その音を終わりの鐘としたのか二人の交わりは一時の終わりを迎えた。
「ねえ、私に協力してくれる?」
「きょう……りょく?」
クリスティーネが潤んだ瞳をヴィクトリアへ向ける。
「4年前、ウェンツェル様を殺したのは魔女じゃない。テオドール様よ。じゃなきゃ、こんなに早く動こうと思うはずがない。いいえ、例え前回が違ったとしても、今回私の主人を殺そうとしたのは事実ね。だから、私はあの男の目論見を全部打ち砕いて、復讐しなきゃいけないの。単純に殺すんじゃだめ。あいつの薄汚い本性を暴いて、賢しい策を破って、完全に負かしてやりたいの。だから、手伝って?」
「……だったら最初から言ってよ。言ってくれれば手伝ったのに。どうしてこんな回りくどいやり方なの?」
「自分のメイドに土壇場で裏切られて、策を破られる。屈辱的じゃない? でも、あなたが隠し事できるとは思えなかったから」
「……ヴィクトリアってば性格悪すぎでしょ。完全に手のひらで踊らされてたんだね。でも、いいよ。使われてあげる。あんな嘘っぽいキスで騙されてあげる」
どこか自虐的にそう笑うとクリスティーネはお返しと言わんばかりにヴィクトリアの唇を奪った。
立場の違いから互いを切り結ぶ二人の少女がキスによって和解する。背徳的で甘美な舞台劇を見ているようだった。観客である祐治に入り込む余地は当然ない。だが、脚本に異を唱えることくらいはできるはずだった。唇を許す程の友人さえも利用するヴィクトリアを非道だと責めたり、利用されることを良しとするクリスティーネを止めたり、それくらいの権利は観客にもある。それでも祐治は声を上げなかった。
不意に何か小さなものが祐治の元へ飛んでくる。反射的に体勢を崩しながらそれを取ると小さな鍵だった。
「さて、逃げていいですよ。というか逃げてください。言われた薬なら魔女に渡してあります」
ヴィクトリアが祐治を見下ろす。他人を道具としか思っていないような視線だった。
事実、祐治にもそう自覚せざるを得なかった。この場面、いや、数日で自分の意志で何か行動を起こしただろうか。他人に従うか、反応を返すだけの人形でしかなかったはずだ。
「お前はどうするんだ?」
そのまま素直に部屋を出るのも憚られ、祐治は意味のない質問をしていた。
「テオドール様を討ちに行きます。それから……二人でどこか遠くにでも行きましょうかね」
律儀にそう答え彼女は腕の中の友人を見る。どこか影を感じさせる微笑みを浮かべていた。クリスティーネはそれを受けて何かを言いかけたが、口を噤む。
当然これは祐治にとって新しい情報でも何でもない。すでにヴィクトリアはウェンツェルへの暗殺を防いだ。祐治がリルリーシャと逃げれば、テオドールが憎んでいる魔女の処刑も防ぐこととなる。それに加え、自分が選んだ刺客に裏切られるとなれば、彼の計画は完全に破れたといってもいいだろう。残るは彼自身の命だけだ。そして、その主人を殺したとなればヴィクトリア達がこの場に留まれるはずもない。簡単に想像できることだ。
「……本当にいいのか?」
それはほとんど自分への問でもあった。彼女の言う通りこの場から逃げてしまっていいのか。悪いはずはない。ヴィクトリアがそれを許しているのだから。だが、祐治の中は罪悪感にも似た、薄霧のような躊躇でいっぱいだった。もしくは、何もせずに対価を得るような居心地の悪さ。それが祐治の足を止めていた。
「今更迷っているのですか? 私に協力する約束でしたよね。最後までしっかり果たしてください。それも私の計画の一部なのですから」
役立たずの部下を叱咤するように冷たく言ってヴィクトリアはクリスティーネと一緒に部屋から出ていった。
迷いは晴れないがここにとどまるわけにもいかない。祐治も部屋を出た。
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