猫先輩とルソーくん

天宮さくら

猫先輩とルソーくん

【文化祭一日目】

 高校一年生の文化祭。催しということで美術部部員は各自、展示用の絵を用意した。油彩・水彩・クレパス・クロッキー、それが絵であればなんでもいい。

 部員である僕は文化祭の間、展示室となる美術部部室の出入り口で受付係に勤しむことになっている。とはいっても美術部部室は校舎の端っこにある。わざわざここまで足を運ぶ人は少ない。

 昼頃だった。一人の女性が美術部にやってきた。その人は朱色の猫耳キャップ帽を目深に被っている。栗色の長い髪は彼女の少しの動作で無造作に揺れ、それをつい目の端で追ってしまう。帽子を被っているのに藍色のパーカーを羽織っているのがチグハグで、なんだか面白い。

 女性は僕の手際の悪い案内の後、部室に入る。ゆっくりとした足取りで部室内に飾られた絵を見て周り、そして一枚の絵に釘付けになった。

「まるでアンリ・ルソーみたい」

 彼女の唇がそう動いたのが見えた。

 彼女はその絵の前で一時間以上粘り、そして帰って行った。



【文化祭二日目】

 この日も僕は美術部部室前で受付係をしていた。他の部員たちは皆文化祭を大いに楽しんでいる。僕はお祭り騒ぎが苦手だし好きじゃない。こうやって部室前で静かに過ごしている方が精神的に落ち着く。だから連日受付係をしていても何も苦痛ではない。

 僕は受付に用意された名簿を見る。美術部の絵を見に来た人は十人も満たない。そのことに寂しさを覚えつつも、心の奥底でほっとする。

 ───きっと今日もこんな感じに終わるのだろう。

 昼時に、再び彼女がやって来た。

 僕の案内なしに彼女は名簿に名前を書き、部室に入る。そしてあの一枚の絵の前で足を止める。

 彼女が見ている絵はバラの絵だ。花瓶に生けてあるバラの絵。背景の黒から浮かび上がるように色塗られたピンクのバラ。なんてことはない単純な静物画。面白みも何もない。

 それなのに───彼女はその絵の前から離れようとしない。近づいたり距離を取ったりしながらじっと見つめている。

 彼女が帰ったのは、その絵を見始めてから三時間後のことだった。



【文化祭最終日】

 今日も僕は美術部部室前で受付係をしている。もうすぐこの喧騒が終わるのだと思うと安堵を覚える。早く終われと思うと同時に、もしかしたらまた彼女が来るかもしれないという淡い期待を抱いていた。

川副かわぞえくん、受付、代わろうか?」

 一つ上の先輩がやって来た。美術部の次期部長だ。次期部長の申し出に僕は首を横に振る。

「いえ、大丈夫です」

「でも連日だし。少しくらい文化祭、楽しんできたら?」

 僕はもう一度首を横に振る。

「ちょっとごめんなさい」

 次期部長の背後から声がした。見ると、彼女だった。

 僕の願いが通じてなのか、彼女は三度みたびやって来た。この三日間、彼女の服装は変わらない。朱色の猫耳キャップ帽、藍色のパーカーだ。

「あ、猫先輩」

 次期部長が彼女をそう呼ぶ。

 ………猫耳のついた帽子を被っているからといってその人を猫先輩と呼ぶのは安直すぎるのではないかと思ったけれど、呼ばれた彼女は微笑んだ。

「お久しぶりです。お元気ですか?」

「ええ」

 猫先輩と呼ばれた彼女はさっさと受付を済ませ、部室に入る。それを追うようにして次期部長も部室に入った。

 次期部長は猫先輩と話をしたそうだが、彼女は次期部長に興味がないようだ。真っ直ぐにあの絵の前へと移動する。

 そして、言った。

「違う。この絵じゃない」

 彼女は怒ったように腕を組み次期部長を睨む。その視線に次期部長は戸惑ったように首を傾げた。

「あの、違うって何がですか?」

「昨日一昨日おとついここにあった絵と、今ここにある絵が変わってる。ねえ、どういうこと?」

「変わってる? そんなことないですよ」

 次期部長は困ったように絵を見た。そこにあるのはバラの静物画。黒の背景から浮かび上がるように色塗られたピンク色のバラの絵だ。昨日一昨日おとついと変わらぬ同じ構図の一枚の油絵。

 彼女はそれが、違うと言う。

「それよりも先輩、連日来てくださっていたんですか?」

 彼女は次期部長の暢気な発言に苛立ったのか、次期部長の質問には触れずに何故か僕のところにやって来た。

 見下ろすようにして、僕を見る。その瞳は怒りで燃えているかのようだった。

「ねえ、君は知ってる? あの絵の在処。知らないわけないよね?」

「僕は」

 単なる受付係です、と言おうとした時、成竹くんがやって来た。

 バラの絵の制作者だ。

「どうした尚太なおた。お客さんか?」

 成竹くんはパートナーらしき人物を引き連れていた。どちらも美男美女で、並んでいる姿はそこだけ芸能事務所のよう───まるで僕とは住む世界が違う。

 成竹くんは猫先輩をちらりと見て何も言わずに受付を済ます。そして部室へパートナーと仲良く連れ立って入っていった。

「どうだい? これが俺が描いた絵だよ」

 成竹くんはパートナーにバラの絵を見せる。パートナーは歓声をあげ、その絵を褒めた。

「すっごーい! さすが龍星りゅうせいくん! すっごく綺麗!」

「だろう? ここのピンク色とか、めちゃくちゃこだわったんだぜ?」

 成竹くんはパートナーと和気藹々とおしゃべりをする。その姿を見て、彼女が眉を顰めた。

「彼が、成竹龍星? まさか」

 彼女はしばらく何か言いたげな様子で僕を見ていたけれど、諦めたように去っていってしまった。


 * * *


 ようやく文化祭が終わった。日は沈み、構内は静けさに包まれている。僕は一人で美術部部室内を片付け部室に鍵をかけた。部室の鍵は明日担任に返す手筈になっている。

 下駄箱に行くと、そこには誰もいなかった。そのことにほっとする。僕は足早に靴に履き替え校舎を出る。

「ああ、やっぱり」

 急いでいた足が止まる。声のした方を見ると、そこには朱色の猫耳キャップ帽を目深に被った彼女───猫先輩がいた。

「………連日、ありがとうございました。えっと、麻那古まなこ阿澄あすみ先輩」

 僕は猫先輩にそう呼びかける。彼女が部室を立ち去った後、次期部長に彼女のことを聞いたのだ。猫先輩は次期部長の二つ上の先輩で、美術部のOB。在学中から猫グッズを集めるのが趣味だったらしく、描く題材は猫ばかりだったそうだ。

 僕の言葉に猫先輩は意地悪そうに笑う。

「それ、君が隠したバラの絵だよね?」

 突然の猫先輩の言葉に、心臓が跳ねる。跳ねて、呼吸が止まりそうになる。

 ──────ああ、バレている。

 張り詰めていた緊張が解け膝をつきそうになる。

 僕は肩に下げた黒い鞄の持ち手を強く握る。

「………なんの話でしょう」

「ここで話すのは良くないな。ねえ、一緒にお茶でもしない?」

 猫先輩は僕に近づいて、覗き込むようにして顔を寄せる。………まるで猫のようだ。

 僕は何も言えず、学校近くの喫茶店・タイニーに連れて行かれた。



「それ、見せてもらえるかな?」

 猫先輩は注文したカフェオレを飲みながら、僕が持っている黒い鞄を指さした。僕はそれに躊躇する。

 喫茶店・タイニーは煉瓦造りの洋風な趣のある建物だ。丸い小窓が可愛らしいと女子生徒が騒いでいるのを何度か見たことがある。その外観にマッチするように、店内のいたるところに小鳥の小物が置いてあり、店の中央には暖炉が設置されていた。暖炉は使われていないようだが、そこにあるというだけで気分を非日常に連れて行ってくれる。

 店内には僕と猫先輩、二人だけだった。

「………見て、どうするんですか?」

「私はあの絵が好きなんだ。もう一度見たい」

 猫先輩は僕が観念するのを静かに待っている。逡巡した後、おずおずと黒い鞄を差し出した。

 猫先輩はそれを受け取ると中の物を取り出す。文化祭初日と二日目に展示していたバラの絵だ。猫先輩はそれをうっとりとした眼で眺める。

「ああ、これこれ。これだよ。やっぱり君が持っていたんだね」

 その言葉の響きに女性特有の艶かしさがそこはかとなく感じられて、僕は揺らぐ気持ちに眩暈を覚える。

 僕には猫先輩に聞きたいことがあった。勇気を出して問いかける。

「………どうして同じ構図の絵が二枚あるとわかったんですか?」

 僕の質問に猫先輩は首を傾げる。そしてその質問は愚問だとでもいうように溜め息をついた。

「どうしてだって? 見ればわかるじゃないか。塗りがまるで違う。あっちには深みがない。想いもない。でもこれには執念を感じるよ。………まるでアンリ・ルソーだ」

 そして、と猫先輩は絵の右下を指さした。

「ここにうっすらとサインがある。N・K………川副かわぞえ尚太なおた、君のことだね」

 そう指摘されて、僕は深く深く、息を吐いた。

 ───ずっと抱えていた思いが解放される。バレて欲しかった気持ちと、バレた後どうすればよいのかという戸惑い。恐れていた事態が来たという恐怖と、もう隠し続けなくてもよくなったという安堵。そういった感情がごちゃ混ぜになって胸いっぱいに広がる。

 猫先輩は一人言葉を続けていく。それに浸るように僕は聞く。

「初めは意味がわからなかったんだ。N・K………制作者の名前は成竹龍星。イニシャルにするならN・RもしくはR・N。それなのにN・Kと書かれている。私の見間違いなのかなと思ったんだけど、そうじゃなかった」

 猫先輩はまるで宝物を飾るようにして、バラの絵をそっと空いた椅子に置いた。その絵から目を離さずに言葉を続ける。

「私の推測からして、この絵は君が描いたんだね?」

 猫先輩の問いに僕は俯いたまま頷いた。

 ………そうだ。この人の言う通り、これは僕の絵だ。

「………よく、気づきましたね」

 掠れた声でそう返事をすると、猫先輩は穏やかに笑った。

「絵を見るのが好きなんだ。………他の美術部員たちとは違ってね」

 美味しそうにカフェオレを飲む猫先輩を、僕は呆然として見る。

 ───この人は、僕のしたことを許してくれるのだろうか。僕を断罪する天使なのか、それとも罪を重ねよと誘惑する悪魔なのか。

 どちらにしても、僕は裁きを受けなくてはならない。

 猫先輩は僕を真っ直ぐに見つめ、問いかける。

「どうしてこんなことを?」

 その瞳は真実しか受け付けない。それがわかったから僕は、彼女に今一度確認をする。

「こんなこと、とは?」

「制作者を偽ったことだよ。なぜなんだい?」

 僕はどこから話せば良いのかを考え───初めから話すことにした。



 始まりは、小学三年生だった。僕は父親の仕事の関係でこの土地に引っ越してきた。友達作りよりも絵を描くのが好きだった僕は当然の如くクラスに馴染めず、毎日一人でひたすら絵を描いていた。

 そんな僕に声をかけてくれたのが成竹龍星くんだった。

 彼は出会った時から輝いていた。いつもクラスの中心で、女子たちの人気の的で、そしてクラス委員長をしていた。彼は担任に頼まれたのか自ら率先してなのかわからないが、孤立している僕に声をかけてくれた。

 ある日の放課後だった。僕が書き溜めていた絵を彼が見つけた。

 ───あの日の彼の言葉が忘れられない。

『お前が描いた絵を俺が描いたことにしてコンクールに出してみようぜ! きっとみんな驚く!』

 彼がどういった意図でそう言ったのか、僕にはわからない。僕はただ絵が描ければそれでよかった。だから彼が何を考えていたとしても僕には興味のないことだった。

 彼の名前で応募した絵は、コンクールで優勝した。

 周囲は彼をもてはやした。見た目もよく勉強もでき、そして芸術の才能がある。そんな彼を大勢の大人たちが担ぎ上げた。その神輿に乗ることを彼は喜び、そしてそんな彼がついた小さな嘘を、僕は支え続けることになったのだ。



「いつまでも続くと………思っていたんです」

 僕の述懐を猫先輩は静かに黙って聴いている。

 僕は視線をバラの絵に移す。

『バラはやっぱりピンクがいいよな! それでこそ俺らしい! そうだろ?』

 成竹くんがそう言って笑った顔は、昔見た彼の輝きからは程遠く感じられた。

 その時だった。………ふと、疲れたな、と思ったのだ。

 理由はそれだけだった。

「終わりにしたくて、試したんだね?」

 猫先輩が淡々と言った言葉に僕は頷く。

「同じ構図・同じ配色の絵を二枚用意して、僕の本当の絵と偽りの絵、誰か気付くか試してみたかった………気づかなければこのままずっと成竹くんの絵を描き、誰かが気づけば………………もう、やめようと」

 こんな回りくどい方法を取らなくても真実を明るみにする方法はあったのかもしれない。けれど、口に出して、これは彼が描いた絵ではない、と言ったところで信じてくれる人はいないだろう。それほどに僕は彼の名前で絵を描き続けてきたし、彼自身もその実績を誇りにしている。僕が真実を話したところで彼は全力でそれを否定する。そして大人たちは僕の言葉よりも彼の言葉を素直に聞く。

 だから───試したのだ。

 芸術のセンスがあると彼を褒め称えた大人たちはこの違いに気づくだろうか? もし気づけば彼らの眼は本当だろう。けれど気づかなければ───この世は嘘偽りだらけなのだと。真実などどこにもないのだと、そう決めてしまおうと思ったのだ。

 予想外だったのは、まさか文化祭に思いのほか人が来なかったこと。

 ───そしてまさか、美術部OBの彼女に気づかれるとは思わなかったこと。

 猫先輩は大きく溜め息をついた。

「君は馬鹿だなぁ。そんなことしなくても、大勢の目の前で彼と並んで絵を描けば一目瞭然だったのに」

 呆れたようにそう言う猫先輩に、僕は苦笑する。

「もしそのような事態になれば、成竹くんは全力で嘘八百並べてその場から逃走しますよ………そういう人なんです」

 カッコつけることを人生の生き甲斐にしている彼だ、そのような事態、全力で潰しにかかる。

 そして今回、僕が彼に内緒で同じ構図・配色の絵を二枚用意し入れ替えた。その事実を知れば激怒する。その姿が容易に想像できる。

『一度始めたことだからな、後戻りは出来ねぇよ』

 何度、そう言われたことか。

 僕は大きく息を吸って猫先輩を見る。彼女は考えるようにして顎に手をやりバラの絵をまじまじと見つめていた。

「僕はどんな罪に問われるでしょうか?」

 拳を握り、その手を見る。油彩で薄汚れた僕の手は、血の気を失ったように白かった。

 大勢の人たちを騙した。賞ももらった。賞金もいくらか出たこともある。成竹くんはそのことでさらに多くの人たちを魅了してきた。

 ───これは、大罪だ。

 僕は深く懺悔する。

 ………どうせなら、一生が駄目になる程に罰して欲しい。二度とこの生を謳歌できないように息の根を止めて欲しい。そう願う。

 そんな僕に告げるように、猫先輩の言葉が聞こえた。

「さあ? そういうのは私の預かり知らぬところだよ。罰して欲しければ大人に言えば?」

「………言ったところで信じてくれる人は少ないです」

「なら、ネットで呟けば? 便所の落書きでもそれが真実なら拾い上げてくれる人はいるよ」

 猫先輩はそれまでずっとかぶっていた帽子を取り、頭を掻きむしった。

「まったく君ってヤツは意気地が無いなぁ。そんなに追い詰められた表情をするくらいなら、もっと早くに絵筆を持たない選択をしたってよかったじゃないか」

「………………絵を描くのが好きなんです」

「なら、自分に嘘をつくような絵を描くなよ」

 そう言って猫先輩はバラの絵を指さす。

「このバラ、下地に青色、使ってるだろ? 本当は青いバラだったんじゃないか?」

 ───きっと誰もわからない、そう思って塗った色。それさえも、彼女には見えるのか。

「………わかるんですか」

「わかるよ。言ったじゃないか。私は絵を見るのが好きなんだよ。まったく、君は天から降ってくる奇跡ばかり望む。我儘わがままだ」

 猫先輩は手に持った帽子を扇のようにして自分を仰いだ。

 猫先輩の言葉に僕はハッとして───赤面する。

 ………欲張りだったのは、僕だったのだ。

「それで? 私に懺悔して満足した?」

 どうやら僕の心情はお見通しだったらしい。僕は少し躊躇った後、小さく一回頷いた。

「今後、どうすんの?」

 それは決めている。この試みをする前から決めていた。………それを実行するにはとても勇気のいることだけど。

 でも───これ以上は続けられない。

「描くの、やめます。ずっと大勢の人を騙して描いてきた罰です」

 描くのが人生の一部分のようになっていた。でもそれも今日で終わり。今まで積み上げてきた技術は全て葬り、ゼロから人生を初めていく。高校生になってその選択ができたのは、大人になってからよりもかなり楽なことだろう。僕は恵まれている。

 ………大丈夫、諦められる。

 少し涙が溢れそうになったけれど、僕はそっと目元を拭って誤魔化した。

 僕の言葉に猫先輩は考えるように腕を組んで───言った。

「この絵、私に買わせてくれないか?」

「………買う、ですか?」

 思わぬ申し出に、思考が止まる。

 ………それは、正しいことなのだろうか?

 猫先輩は眉を寄せて僕を見る。それはまるで駄々をこねた子供を見るような目で、僕はどこかほっとする。

「君はいちいち大袈裟に考えすぎだよ。所詮は学生の美術で部活動だ。それで大金を稼いだわけでもないし、誰かが死んだわけでもない。受賞したというのなら、もらったものは返却しろ。それで済む話じゃないか。それなのに絵筆を折るだなんだ言って人生悲観して。君は阿呆なのかな」

「でも………許されることではありません」

「許されないのはあっちの彼であって、君じゃない。むしろ技術を持った君はその技術を伸ばし続ける義務と責任がある。───それこそが、君の罰だよ」

 猫先輩は頬杖をついてバラの絵を見る。

 本当に………この絵を好いてくれたらしい。その事実に心が熱くなる。

「この先どんなに絵に対して絶望しても苦悩しても後悔しても、逃げちゃ駄目だ、絶対に。君は一生をかけて絵と向き合っていかなくてはならない。そうしなくては騙された人たちが君たちを許さない。………その人生は、嘘をついて君が得るべき評価を掠め取った彼よりも、ある意味苦痛かもしれない。それでも、君は絵筆を握り続けるべきだし、捨てることはこの私が許さない」

 猫先輩はズボンのポケットから財布を取り出した。そこから数枚、札を出す。

「君がこれから歩む波乱の絵画人生の祝金だ。受け取りたまえ」

「そんな………………できません」

「それは罪を背負わない、ということかな?」

 イラズラっぽく笑う猫先輩に───僕は何も言えない。

 おずおずと、そのお金を受け取った。猫先輩はそれを確認すると、嬉しそうにバラの絵を手に取り眺める。

「ありがとう………ございました」

 僕は手元のお金を見る。二万五千円という大金だ。………人生で初めて、自分の絵で稼いだお金。その事実が、堪えていた涙を温かくし頬に流れる。

「ああ、そうそう。君の連絡先、教えてくれないか?」

 気がつくと猫先輩はその手にスマホを持っていた。僕は猫先輩の言葉をしばらく反芻し、尋ねる。

「僕の………連絡先ですか?」

「そうだよ。君が新作を描き上げたら連絡が欲しい。それが良い絵だったら買い取らせてよ」

「それは………いいですけど」

 それじゃまるでパトロンだ。僕にはまだ何も評価がついていないというのに、気が早いんじゃないだろうか。

 ………けれど、これから僕は一生をかけて絵画人生を歩まなくてはならない。それは僕にとっての罰であり───そして祝福なのだ。

 僕は鞄からスマホを取り出し、猫先輩とアドレス交換する。ピロリンと腑抜けた音を出すスマホがなんだか信じられなかった。

「それじゃ。次会う時まで元気でね、ルソーくん」

「ルソーくん?」

 猫先輩はバラの絵を黒い鞄にしまい、それを持って席を立つ。その姿がまるで女神のように神々しく見えた。

「そ、ルソーくん。君の絵はどことなく、アンリ・ルソーのような凄みがあるんだよ。君にピッタリのあだ名だと思わない? ………私の好きな「戦争」、いつかあんな絵を描いてね」

 そう言って猫先輩は店を出て行った。

 僕は先輩に買ってもらった絵の代金を握りしめ、勇気を出して成竹くんに電話した。

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