19.紫煙とココアと白い吐息

 冷え込む夜だった。

 机に向かっているわたしは、足元を毛布で包み込んだ。火の魔石を使った暖房具のおかげで部屋の中は暖まっているはずなのに、なんだか足の先がひどく冷たい。


 今年は寒くなるのが早い気がする。

 冬物を早めに出した方がいいかもしれないし、おばあちゃんが編んでくれた毛糸の靴下ももう必要かもしれない。


 そんな事を考えながら、わたしは刺繍花の図案を描いていた。

 いま描いているのはスイートピー。蝶の羽にも似た可愛らしい花だけど、大きさや色を変えて作ろうと思っている。


 ドミニクさんとケーキを食べて気分転換は出来たと思う。本当なら夜も刺繍から離れて、ゆっくり休むべきなのかもしれないけれど……何だか落ち着かなかったのだ。

 さすがに針を持つことはしなかったけれど、少しでも刺繍に触れていたいと思った。



 不意に、机の端に置いてあるケースがぴかぴかと光った。正確には、ケースの中に敷かれている水晶が光っているのだけれど。

 脚が丸くなっている可愛らしい金のケースはわたしの手の平と同じくらいの大きさで、魔導具の一つでもある。

 光が強くなったかと思えば、ケースの中の水晶に一通の手紙が乗っていた。


 これは魔法郵便の送受信箱だ。

 登録している人となら手紙の転送が簡単に出来る魔導具で、一般的に流通しているものでもある。

 高価なものだと声を伝えられるものもあるが、わたしはこの魔法郵便で満足していた。


 手紙の差し出し主はジルだった。

 流れるような綺麗な字で、わたしの名前とジルの名前が記してある。薄い青色の封筒を開けると、刺繍の件での連絡だった。


 魔法郵便と言いながらも、別に封筒に入れなくてもメモ書きでも転送は出来る。それなのにこうして丁寧に封筒を使うところが、ジルらしいなと笑みが漏れた。


 刺繍に使う魔法布や糸、回路の図案が出来たとの連絡だった。近いうちに会って渡したいとの手紙に、返事を書くべく引き出しから便箋を取り出した。押し花が使われているこの便箋はわたしのお気に入りのものだ。


『了解。いつでも大丈夫だから、ジルの都合のいい時に声を掛けて』


 二つに折ったそれを封筒に入れず、ケースの水晶の上に置く。簡単な操作で、その手紙はジルの元へと転送されていった。

 それを見届けてからまた図案へと目を向けて、その間にほとんど時間なんて経っていないのに、また水晶が点滅を始めた。


 転送されてきたのはジルからの手紙で、封筒に入らず小さなメモに短い言葉だけが記してあった。


『元気ない?』


 どうして分かってしまうのかしら。

 手紙の文章から読み取れる事なんて、そんなにないと思うのに。会っていたら声だとか表情だとかで分かるだろうけれど。

 苦笑いをしながら、わたしもメモに言葉を紡ぐ。


『元気よ。大丈夫』


 それを転送して、今度は水晶をしばらく見つめていたけれど、もう点滅する事はなかった。それに安心して、図案へと意識を向ける。スイートピーは花芯と花弁とに分けて、グラデーションをつけるよりかは一色で作り上げた方が可愛いだろう。

 図案に覚えている糸の色番号を記していく。ここを組み合わせて、折り込んで……色合いがシンプルな分、つぼみを──


 ──コツ、コツ


 音が響く。

 窓を揺らす、軽い音。


 窓に目を向けても、何もない。風の音だって聞こえないのに。

 少し不気味に思いながら窓を見つめていると、また、コツ…と音がした。


 恐る恐る窓に歩み寄って、両開きのそれを薄く開ける。隙間から家の外を覗くと、そこにはジルが立っていた。

 立ち上った白い吐息の向こう側で、私の姿を見つけてか笑いながら手を振っている。逆の手には紙袋を下げていた。


 どうしてジルがここにいるのか。

 「待ってて」と小さな声で言葉を掛けると、この距離でも伝わったらしく頷いている。


 わたしは厚手のカーディガンにマフラーをぐるぐると巻き、鏡台の前で目元のほくろだけを隠してから部屋を後にした。


 もう両親もメリドも眠っているらしい。

 静まり返った家の中を足音を消して歩き、そっと玄関から外に出る。


 ジルが玄関までやってきていて、わたしが出た後の玄関扉をそっと静かに閉めてくれた。


「こんな時間にどうしたの?」

「んー? ……大丈夫じゃなさそうだったから、意地っ張りなフィーネちゃんのほっぺたをつつきに来た」


 さっきのメモのやり取りを言っているのだろう。言葉通りに頬をつついたジルが肩を揺らす。

 家の側で話していたら、誰かを起こしてしまうかもしれない。わたし達はその場を離れ、どこに向かうでもなくゆっくりと歩き出した。


「本当に大丈夫なんだけど……」

「そう? 何かあったでしょ?」

「……どうして分かるのかしら」

「勘、かな。でも間違ってなかった。……落ち込んだ顔をしているから」


 歩き出したジルは紙袋から木製のカップを取り出して、それをわたしに差し出してくれる。ココアの甘い香りが白い湯気と一緒に、夜気の中に消えていった。


 ありがとう、とそれを受け取って一口飲む。ほんのりとした甘さが、胸の奥まで染みていくようだった。


「落ち込んでるって、フィーネちゃんは言えないから。だから僕が気付いてあげなくちゃいけないでしょ」

「……別に大した事じゃないのよ。ちょっと仕事で失敗しちゃって……それが悔しいだけ」

「そっか」


 ジルが足を止めたのは、小さな公園だった。

 幼い頃は家からも近いこの場所で、よく一緒に遊んだものだ。水の止められた噴水に浮かんだ落ち葉が、船のように流れている。


 いまは誰もいない公園のベンチに二人で座った。

 かじかむ指先をカップが温めてくれて、わたしは両手でそれを包み込んだ。


「じゃあお仕事頑張らないとね。フィーネちゃんはそういう時に休めって言っても落ち着かないだろうから、悔しい気持ちをぶつけるくらいに仕事に打ち込んだ方がいいんじゃないかな」


 予想外の言葉に、ジルの事を真っ直ぐに見つめた。紺碧の瞳が優しくわたしを捉えていた。

 まさに今夜のわたしを、刺繍に向き合っていたわたしの心を見透かしているような青色だった。


「……なんでもお見通しなのね」

「なんでも、ってわけにはいかないけどね。君が辛い時には気付きたいし、駆け付けたいと思っているよ」

「こうやって会いにきてくれたみたいに?」

「そう。意地っ張りな君が少しでも楽になるように」


 わたしが思い悩む原因になったのも、隣にいるこの男で。

 でも……わたしの心を軽くしてくれるのも、間違いなくこの男なのだ。


 わたしの心に寄り添って、傍に居てくれる。それだけで、心を覆っていた淀みのようなものが薄くなっていくのを感じていた。


「……ありがとね」

「どういたしまして」


 ココアを飲み終えたジルが、ちょっとごめんと断りを入れてから煙草を口に咥える。

 指先に灯る炎が描く軌跡はやっぱり綺麗だと思った。


 たなびく紫煙。ココアの香り。夜気に消える白い吐息。

 ささくれだっていた気持ちが、解けていくのを感じていた。


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