18.穏やかな時間はほろ苦く
ドミニクさんとの約束の日。
お仕事を休んでいるのに外に出掛けるのはちょっと気が引けるけれど、母は快く送り出してくれた。家にいるよりも気持ちの切り替えになるだろうからと。
立てた襟が特徴的な杏色のワンピースは膝下丈で、焦茶色のブーツを合わせた。厚地のカーディガンも同じような焦茶色。
髪はいつものようなシニヨンにまとめ、アクセサリーはピアスをつけようと小物入れに手を伸ばす。
白鳥の飾りがついた、たまごの形にも似た小物入れ。深い青色に金色の装飾が可愛らしいそれは、今年の誕生日にジルから贈られたもの。
ピアスを入れるのにちょうどいい大きさで、重宝している。
そこから真珠の一粒ピアスを取り出して、耳に飾る。
化粧が崩れていない事、目元のほくろが隠れている事を確認してからバッグを手にして部屋を出た。
エントランスから外に出ると、軽やかな雨が降り始めていた。
見上げた空には薄い雲がかかっているけれど、遠くの空には青空が覗いているから、大きく天気が崩れる事にはならなさそうだ。
わたしは紺色の傘を手にとると、それを開いて歩き出した。
歩きながら傘をくるくる回す。
傘の縁を飾る白いレースが可愛らしいこの傘は、リーチェと色違いで買ったお気に入りのものだ。傘が可愛いと、それだけで雨の日も嬉しくなる。
雨が傘にあたる音も、石畳に出来た浅い水溜まりも、重く沈むようなものではなくて。どこか穏やかな演出にも見えるその風景に、わたしの口元は綻んでいた。
約束をしていたお店は、白い壁にも緑色の屋根にも蔦が這っていた。まるで森の中を思わせるような佇まいが素敵で、吐息が漏れてしまうほどだ。
テラス席もあるようだけれど、生憎の空模様で片付けられてしまっている。
傘を畳んでからドアを開けると、店員さんがやってきて傘を預かってくれる。
約束をしていて……と告げると、店の奥でドミニクさんが手を振っているのが見えた。
席は半分ほどが埋まっていた。心地の良い賑やかさに、心が弾む。
お店の中にもたくさんの植物が飾られていて、とても雰囲気がいい。コーヒーの香りが至る所から漂ってきていた。
「こんにちは、フィーネさん」
「こんにちは、誘って下さってありがとうございました。素敵なお店ですね」
ドミニクさんが席を立って椅子を引いてくれるから、会釈をしてからそこに座った。
いつも【アムネシア】の中でしか会った事がないから、こうして外で会うのが何だか不思議な感じもする。
短く整えられたオレンジ色の髪も、優しい薄茶色の瞳も、真面目そうな顔立ちもいつもと変わらないはずなのに。
「私も初めて来たお店なんです。うちの店に出入りする方から聞いてきたんですが……キルシュのケーキがおすすめだそうですよ」
「では折角なので、そのケーキを頂きたいですね」
「私もそうします。飲み物はコーヒーと紅茶、どちらがいいですか?」
「コーヒーで。先程からコーヒーのいい香りがしていますから、その気分になってしまって」
「大きく同意します」
笑いながらドミニクさんが大きく頷いてくれる。
手を挙げて店員さんを呼ぶと、二人分のケーキとコーヒーを注文してくれた。フリルのエプロンが可愛らしい店員さんがにこやかに応対している。
改めて店内に目を向けると、花よりも植物が多く飾られていた。
背の高いものから、バスケットに入って天井から下げられているものもある。
わたし達のテーブルにも短く切ったルスカスが一輪挿しに飾られていて、シーリングファンからの風でその葉をそっと揺らしていた。
「なんだか森の中の隠れ家に来たみたいです」
「確かに森を思わせますね。植物が多いからでしょうか。フィーネさんは花に詳しいと思いますが、こういった植物もお好きですか?」
穏やかな問い掛けに頷いて応える。
適度な賑やかさに包まれた店内は、大きな声でなければ会話を楽しむ事も問題なさそうだった。
「こうした葉ものも作りますから。花に添えると華やかになって綺麗ですし」
「フィーネさんの作る花は、本物と見間違えるくらいに瑞々しいですからね。色々と計算されて合わせているんですね」
その声色は、どこまでも真摯だ。
本当にわたしの花を褒めてくれているのが伝わって、嬉しくなる。
「お待たせしました」
店員さんがやってきて、わたし達の前にケーキとコーヒーを用意してくれる。
ごゆっくり、と掛けられる声に会釈をして、わたしはケーキへと視線を落とした。
たっぷりの生クリームで飾られたケーキに、削ったチョコレートが飾られている。真ん中に鎮座するさくらんぼがきらきらと艶めいて見えた。
コーヒーにも生クリームが載せられている。少し溶けだしたクリームとコーヒーが混ざり合って、優しい色合いになっていた。
「美味しそう。いただきます」
手を組んで感謝を捧げてからフォークを手にした。
ケーキの端をフォークで掬うと、中は茶色いスポンジだった。ココア生地なのかチョコレートなのか。わくわくしながら口に運ぶと、ふわふわと軽いココア生地だった。
ココア生地に挟まれたクリームからは、キルシュの香りがする。甘さが控えめでとても美味しいケーキだった。
「すごく美味しいです。こんなにクリームがたっぷりなのに、甘すぎないでいいですね」
「ええ。実は……自分はそこまで甘いものが得意というわけではないんですが、このケーキは美味しく食べられそうです」
ドミニクさんはその言葉通り、大きく切り分けたケーキを口に運んでいる。
美味しく食べられるなら良かったけれど……それならどうして、ケーキの美味しいお店に誘ってくれたのだろうか。
わたしはコーヒーにスプーンを沈ませて、軽く混ぜてから一口飲んだ。
クリームの程よい甘みがコーヒーとよく合って、まろやかになって飲みやすい。
「ドミニクさんは、どうしてこのお店に誘ってくれたんですか? 甘いものが得意でないなら、他の場所でも良かったのに」
「あなたが前に、ケーキが好きだと言っていたから。それを覚えていたんです」
ドミニクさんの耳が少し赤い。
そういえばずっと前に、世間話でケーキの事を話した事があるかもしれない。そんな他愛もないことを覚えていてくれたんだ。
昨日のこともそうだ。わたしの事を励ます為に、こうしてケーキに付き合ってくれている。きっとこの人はとても優しい人なのだろう。
わたしはフォークを置いて、バッグの中から昨日借りたハンカチを取り出した。
「あの……昨日はありがとうございました」
「いえいえ。少しは気分転換になりそうですか?」
「はい。いつもはしないミスを連発して、母にも呆れられてしまって……。でも気持ちを切り替えて、明日からは頑張れそうです」
「それなら良かった。フィーネさんはいつも頑張っていますから、たまにはゆっくり休んでもいいと思いますよ」
「そうでしょうか……。休むと落ち着かなくて」
その心遣いに感謝しながら、わたしはコーヒーを一口飲んだ。最初に飲んだ時よりもクリームのコクが深まっている。
「本当に……どこまでもひたむきな人なんですね」
「そんな大層なものじゃないですよ。それより……ドミニクさんは今のお仕事をしてから長いんですか?」
それからわたし達は、コーヒーを楽しみながら色んな話をした。
ドミニクさんが隣国の出身だとか、商人の家に生まれたとか……ドミニクさんが【アムネシア】に出入りするようになって長いけれど、わたしはこの人の事をよく知らなかったのだと思うばかりだ。
本当に気晴らしに誘ってくれただけらしく、前回食事に誘われた時のような事もなく。
それも彼の気遣いだと気付いて、それなのに胸が苦しいのは──こんなにも素敵な人なのに、応えられないと思っていたからかもしれない。
帰る頃には雨も上がり、空からは梯子のような光が下りてきていた。
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