12.何の話をしているのか
「──ちゃん……お姉ちゃん!」
大きな声に肩が跳ねた。その拍子に手元が狂って、布に刺した針の場所が少しずれてしまった。
「お姉ちゃんっ!」
「……リーチェ」
わたしは針を抜きながら、作業机の前で腰に手をあてている妹を見つめた。呆れたような笑みを浮かべているリーチェに、一体何が……と口を開こうして、外が暗くなっている事に気が付いた。
工房の中には明かりが灯されていたから全く気付かなかったけれど、
「もう夜になっていたのね……」
「集中しすぎ。ジル兄ぃが待ってるよ」
「……そうだった。今日はジルと約束をしていたんだったわ」
わたしは慌てて机の上を片付けると、作りかけの花は針や糸と一緒にまとめて籠の中に入れた。明日はお休みだから、自室で続きを作ろう。
それよりも約束をすっぽかしてしまうところだった。先日の植物園のお礼にと誘ったのはわたしなのに、随分と失礼な事をしてしまっている。
リーチェに工房や裏口の戸締りをお願いして、わたしは隣にある家へと飛び込んだ。
エントランスホールに立っているジルは、わたしの姿を見てにっこりと笑ってくれた。「おかえり」と手を挙げて迎えてくれるその様子に怒りの気配がない事にほっとしたのと同時に、申し訳なさが募った。
「ごめんなさい、すっかり遅れてしまって……」
「急がなくても大丈夫だよ。気にしないで」
「ありがとう。すぐに支度をしてくるから、奥で待っていて」
「いや、いいよ。ここで待ってる」
奥のリビングを進めても、ジルは首を横に振る。慣れた素振りでエントランスに置いてある椅子に腰を下ろして、サイドテーブルに置かれた夕刊を読み始めた。
それなら、わたしも早く支度をしてくるだけだ。階段を駆け上りながら、こんな姿をおばあちゃんに見られたら叱られてしまうな、なんて思いながら。
大きく膨らんだ長袖が特徴的な黒のブラウス。肩から手首に掛けては細やかな刺繍が施されたお気に入りの服を着る。それに合わせるロングスカートも黒を選んだ。腰から膝辺りまではタイトだけれど、膝下からはふわりと広がっているのが王都での流行りでもある。
下ろした髪にブラシを入れて一つに結んでから刺繍で作った百合を結び目に飾った。
お化粧を直して、目元のほくろの上に粉を重ねていく。毎朝の化粧の度にほくろを隠しているから、家族もこの存在を忘れかけているようだ。
そろそろ寒くなってきているから、上着には丈の長い厚手のカーディガンを羽織った。小さなバッグを持って、姿見で一度確認してから部屋を出た。
急いで支度をしたけれど、それでも待たせてしまった事には変わらない。
階段を降りようとしたところで、エントランスホールから聞こえる声にわたしの足は止まってしまった。
ジルと話しているのは……リーチェだ。
何も珍しい事ではない。幼い時にはわたしとジルの後を、よくリーチェもついてくるくらいに仲良しだったもの。
「自分が一番だなんて、油断していたら足元掬われちゃうかもね」
「掬わせる気も譲る気もないよ。僕も色々考えてる」
何の話をしているのだろう。
どことなく剣呑な雰囲気が漂っているようで、それ以上足を進める事が出来なかった。
「考えているうちに攫われてったりして。ジル兄ぃは知らないだろうけど、相変わらず人気があるんだからね」
「例えば誰に?」
「今日は問屋さんでしょ。その前は同級生の──」
「──へぇ?」
不意に寒気が走って鳥肌がたった。カーディガン越しに腕を摩るも、またぶるりと体が震えた。
外の風が入ってきているのだろうか。カーディガンだけじゃ寒かったかもしれない。
「リーチェちゃんも姉離れしたら?」
「お姉ちゃんは私が守るんだもの。いいのよ、このままで」
「それは僕の役目でしょ」
二人の声はいつもと変わらないし、何なら笑みだって混じっているようなのに。
それなのに、どこか張り詰めたような空気感。いつまでも聞いているわけにいかないし、どうやら話題はわたしの事らしい。
わたしは敢えて大きな音を立てながら、階段を下りて行った。
「お待たせ。リーチェがお相手してくれていたの?」
「うん。たまにジル兄ぃとお喋りもいいかなって」
「僕もリーチェちゃんとお喋り出来て楽しかったよ」
「でしょー」
ふふふ、と顔を見合わせて二人は笑うけれど、それさえもどこか緊張感が漂っている気がする。
「ありがとね。じゃあ行ってくるわ」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
手を振ってくれるリーチェにわたしも手を振り返しながら、ジルの開けてくれた扉から外に出る。
空には大きな月が浮かんでいるけれど、薄い雲が傘のように掛かってぼんやりとした光で空を照らしていた。
風は冷たく、秋の気配。冷え込んだこの空気が気持ち良くて、わたしは大きく息を吸い込んだ。
「リーチェと何の話をしていたの?」
「学園の事とか、仕事の事とか。リーチェちゃんもすっかりお姉さんだよねぇ。昔はあんなに小さかったのにさぁ」
「本当に親戚のおばさんみたいな話し方をするわよね」
どうやらジルは、先程の話をわたしにするつもりはないらしい。
盗み聞きをしていた罪悪感もあって、わたしも追及する事は出来ないし、するつもりもなかった。
「さて、今日は何を食べようか。また運河通りでいい?」
「ええ、もちろん。でもそろそろ外で食べるのも辛いかしら」
「毎年、雪が降ったって外で食べてるでしょ」
「付き合わせるのも悪いかしらって、わたしの親切心よ」
「あはは、それは有難い。でもお気遣いなく。僕も外で色んなものを食べるのが好きだから」
ジャケットの肩に、青い髪がさらりと落ちる。今日も一つに結ばれたジルの長い髪が、月明かりに照らされてきらきらと光っているようだった。
黒いジャケットにグレーのストールがよく似合っている。ストールの端は濃いグレーとグラデーションになっているのも素敵だと思った。
「そう? じゃあ今日も外に付き合って頂戴」
「喜んで」
わたしを見るジルの瞳は、今日も優しい。
さっきまでのリーチェとの会話はもう忘れる事にして、わたしは空腹を訴えるお腹をそっと摩った。
今日は何を食べようか。
寒いから温かいものがいいけれど、飲み物はワインがいいかもしれない。
そんな事を考えていると、隣のジルがくつくつと可笑しそうに笑いはじめた。
「……なぁに?」
「何を食べようか考えてた? 全部口に出てたけど」
「え、噓でしょ」
驚きと気恥ずかしさに、顔に熱が集っていく。手の甲で頬に触れてみるとやっぱり熱い。
「可愛いよねぇ」
「……バカじゃないの」
揶揄いに悪態を返しながら足を速めると、待ってと笑いながらジルが追いかけてくる。
何だかそれが可笑しくて、わたしも笑ってしまった。
月明かりで伸びた影が二つ、並んで揺れていた。
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