51話 誤解(前編)

「あの、えっ。あの……」


黒コートの男がオロオロとこちらに話しかけようとしている。

心臓のドキドキが、リルの耳にはよく聞こえた。

リルは、にこっと笑って言う。

「ボクはリルだよ。おじさんは?」


「わ、私は、クオンと、お呼びください」

たどたどしく、男が名乗る。


「クオンだね、覚えたっ!」

リルが三文字一気に覚えて、自慢気に胸を張る。

おそらく空竜の鳴き声に似て覚えやすかったのだろう。


「その……、久居は元気ですか?」

心配でたまらないという顔で尋ねてくるクオンに、リルは花のような笑顔で答えた。

「うんっ、元気だよー」


そして、思い出したように続ける。

「あ、でも今戦うとこみたいだから、この後元気かは分かんないね……」


久居から溢れる闇の気配は、今も大きくなり続けていた。


----------


サラは、久居の闇を見て確信する。

色も、その性質も、父さんの闇によく似ている。

やっぱり、この人は、父さんの大事な人……。


(……傷付けたら、父さんに嫌われちゃう……)


一方で久居も、レイの妹をどうにか傷付けずにリルの元へ行けないかと思案していた。

互いに無言で、互いの真顔のまま、静かに向き合う二人。

先に口を開いたのは久居だった。


「レイザーラという名をご存知ですか?」


「……知らない、あんな人」

サラは、年相応に女性らしさのある柔らかな声で、しかし、冷たく答える。


(ご存知の様ですが、好意的ではなさそうですね……)

久居が慎重に言葉を選ぶ。


「貴女のご両親は、天使なのですか?」


「私の親は……今の父さんだけ」

サラが、ぽつりと答える。


サラの瞳にあの日の母の姿が映る。

震える手で私を抱きしめて、優しく微笑んでくれた母。

『大丈夫。怖くないわ。先に行ってて。母さんも、レイザーラもすぐに行くから』

そう言ったのに。

信じてたのに。


……それなのに。


中間界は、天界とは何もかも違って、怖くて、寂しくて。

一人きりでは、何も出来なくて。


ようやく拾われた施設でも、嫌な事ばかりだった。


育つのが遅くて、気味悪がられた。

意地悪してくる人ばっかりだった。


それでも、いくらかご飯が食べられる。

屋根のあるところで寝られる。

だからずっと我慢して、待っていた。

母と兄が迎えにきてくれるのを。


母も兄も、来てくれると言ったのに。

迎えは来ないまま、月日は過ぎた。


成長しない姿を気味悪がられないよう、いくつかの施設を転々として生き延びていたが、外見が十を過ぎる頃、背に羽根が生えてきた。

それを診たお医者さんは、よくわからないが骨が出っ張る病気だろうと、それを切ろうと言った。


羽が無ければ、もう二度と母にも兄にも会えなくなる。

そんな気がして、私はまた逃げ出した。


もう、どこにも居場所はなかった。


それでもなんとか死なないように。

隠れて、逃げて、また隠れて。

ずっと、ずっと待っていたのに……。


……いつになっても、母も兄も迎えには来なかった。




闇を震わせ押し黙ったサラに、なんと続けるべきか久居が考えあぐねていると、空から聞き覚えのない音が響いた。


「キュワァァァァァァ!!」


その鳴き声に覚えは無かったが、このように雄叫びを上げて空から来る生き物には覚えがあった。


見上げると、光り輝く淡い金色の竜。

空竜とは違う、女性的なしなやかなシルエットの竜が、久居とサラのいる外庭に降り立つ。


その竜から降りてきたのは、レイだった。

レイは輝く金色の竜を撫でると「光竜、ありがとう」と告げる。

輝く竜は、静かに飛び去った。


レイは、視線で久居の無事を確認すると、サラを見た。

サラは、憎々しげにレイを睨むと、久居に向かって言った。

レイに聞こえるような、はっきりした声で。


「母も兄も、私を捨てたわ」


「違う!!」

レイが叫ぶ。その顔は焦りと嘆きと後悔で、悲壮な色をしている。


(レイは何か思い出せたのですね……)

久居は、二人の行方も気になったが、今はリルの元に向かう事を優先させる。


「レイ、この場をお願いできますか」

「ああ」


久居は、闇の力をもう一度体内へ収める。

滞る事なく、無事取り込めた事にホッとしながらも、久居はリルの元へと急いだ。


サラが久居に足止めを放つ事はなかったが、できる事なら、父には会わないでほしいと願う。


「俺が、分かるか?」

レイはサラを見つめていた。


サラは久居の背が消えた方向から、ゆっくりとレイへ視線を向ける。

それは、暗い炎の宿った、憎悪の眼差しだった。


レイがそれを受け止めて、ぞくりと背筋を震わせる。

殺意にも似たそれは、確かに自分に向けられていた。


「母さんはお前を大事にしてた。お前はまだ小さくて覚えてないかも知れないが、俺は知ってる。母さんがどんなに……」

「覚えてるわ。だからこそ! 信じてたのに!!」

サラがレイの言葉を遮って叫ぶ。

「お前は、覚えてたのか……。ずっと……」

レイは戸惑うように言葉を詰まらせた。


サラは、纏う闇を憎悪に任せて大きく広げる。

(さっきの人が相手じゃないなら、倒せばいいだけ。 この人が私を捨てたように、私もそうしたらいい)


サラから憎しみと共に殺意を向けられて、レイはそれを受け止めながら訴える。

「お前に、ずっと辛い思いさせてて……すまない。

 憎まれて当然だし、殺されても文句はない。

 ……けど、一つだけ教えてくれ。母さんは誰に殺されたんだ?」


「…………殺された?」

サラの顔色が変わる。

今にも泣き出しそうな、不安に潰されそうな顔だ。


「そんな……でも……じゃあ……」

(母さんは、迎えに来なかったんじゃなくて……?)

「っ! じゃあ、どうしてお兄ちゃんは私を迎えに来てくれなかったの?

 ……どうして、天使は私を殺そうとするの?」

サラの言葉に、レイが苦しげな顔になる。

「お前を殺しに来た天使がいるのか」

「うん……。何回も来て……。父さんが助けてくれなかったら、私……」

サラが、思い出に怯えるように両腕と自身の羽で体を包む。

「……どんな天使だ?」

レイは、これ以上ないほどに思い詰めた顔で、それでも尋ねた。

そうでない事を祈りながら。

「色んな天使が来たけど……。いつも後ろの方で、髪の長い……銀色の髪の人が指示してた……」

その言葉に思わず首を振る。そんな事実は受け入れられない。と心が言うように。

分かっていた。……いや、分かっていた、はずだった。

けれど、まだ覚悟が足りなかったのか、レイは今までの自分の足元が崩れていく感覚に襲われ、その場に膝をついた。

「その、人は……キルトールと……呼ばれてなかったか」

嫌な汗が、レイの頬を伝う。


サラはそんなレイを、怪訝な顔で睨む。

「……知ってる人、なの……?」


レイはたっぷりの間を置いて、ようやく絞り出すように答えた。

「…………俺の、義兄さんだ」


「え…………、なん……、で……」サラの言葉はそこで途切れた。

後は、言葉にならない何かが悲鳴と混ざって叫びになる。


(間違った!!)

レイは気付くが、その気付きは遅すぎた。


いつだって、自分の事でいっぱいいっぱいで、大事な時に正しい言葉も選べない。


妹を助けるために来たはずだった。

それが出来なくても、せめて謝ろうと思っていた。


なのに俺が。よりによって。

妹を、酷く傷付けた。


叫びが途絶えたサラは、涙溢れる瞳で、鋭い殺意でレイを射抜いた。

「そうじゃない! 違うんだ!! 聞いてくれ、俺はーー!」

「知らない!」

サラが、レイの声をかき消すように叫び、両手に強く闇を集める。


レイはなんとか立ち上がると、サラへ手を伸ばす。

自分よりも、もっと、ずっと悲しいはずの妹へ。


守るべきはずの妹の名すら、まだレイは思い出せない。


闇は、その濃さを増して、黒々とレイの前に広がる。

天使の性質か、その黒色をレイは心底恐ろしいと感じた。


奥歯を噛み締めて。震える足を止めないように。

レイは、逃げなかった。


サラの、怒りと悲しみが込められた一撃は、レイを丸ごと飲み込んだ。

レイの張った多重障壁も、身体を包む防御壁も、光の宿った防具も、そのあちこちが闇に溶けて消えてゆく。


何よりも、闇に呑まれて心が消えてしまいそうだった。

思わずレイが縋ったのは、神ではなかった。

(カロッサさん、俺に勇気をください……)

応えるように、胸元に入れていた羽根が最後の輝きを放つ。

レイの心は、温かい何かに包まれ闇から遮断される。

守られている事に感謝しながら、レイはもう一歩、また一歩、サラに近付く。


闇の放出を続けるサラはそこから動けなかった。

身体中を削られながら、それでも近付いてくるレイに、なす術がない。


レイは、もう手が届くところまで来てしまいそうだ。


「……っ」


身を硬くするサラを、レイはそっと抱きしめた。

サラは、どうしたら良いのか分からず、戸惑いに闇が霧散し始める。


「すまない……。俺がもっと早く、思い出せていたら……」

耳元で響く兄の声は、酷く悲しげに掠れていた。


忘れていたと言うの?

私の事を、今までずっと?

母を殺した人を、探しもしないで?

(そんなの、おかしい……。お兄ちゃんはいつでも、馬鹿みたいにまっすぐだったのに)


レイを隠していた闇が消え去ると、そこには、あちこちを抉り取られ派手に血塗れになったレイの姿があった。


「お前の名前……。今、やっと、思い出せ……た……」

間近で、レイが力なく微笑んだ。

その瞳から零れた涙の雫が、サラの頬に降って弾ける。

「サー……ラ……」

それきり、レイは動かなくなった。

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