第三部

42話 再会(前編)

リルが空を見上げて動きを止めた。

手には摘みかけの大葉が握られている。


久居はそれに気付き眉を寄せた。

遂に来てしまったか。と、苦々しく思いながら。


リルは耳を二、三度ピクピクさせてから、久居を振り返る。

「来たのですね……」

「うんっ!」

苦しげな久居と違い、リルはとても嬉しそうに頷いた。


「クォォォォォォォン」

風に乗った鳴き声がわずかに届いて、レイが空を仰ぐ。

「ん? いやいや、空竜このままこっちくる気か!? こんな人里に降りて来たら目立つだろ!」


レイが走り出すと同時に、腰から大きな翼が広がる。

十メーターほど助走をつけて、レイがズダンと地面を蹴った。

相変わらず騒々しい離陸だと思いながら、リルと久居は、空へ飛び出すレイを見送る。

レイは、家の屋根を越える前には、無詠唱で術を使い、光に溶け込み見えなくなった。


「じゃあボク、これ洗って干したらお出かけの用意するね!」

リルが大葉をもう数枚採ってから、うきうきと家に向かう。


旅の支度をしなければならない。

それは分かっていたが、久居は一人、その場に立ちすくんでいた。



ガララッ! ガラララッ! ドパンッッッ!!

と家が揺れる勢いで引き戸を閉められ、中にいた菰野がギョッとする。

うきうきのリルがちょっと力加減を誤ったらしい。

「リル君ご機嫌だね、どうかしたの?」

「えへへ、くーちゃんが来たんだー。ボク達お出かけするね!」

嬉しそうなリルの頭を撫でて、少しだけ寂しそうに菰野が笑う。

「そうか、よかったね」



菰野が外に出た時、久居はまだその場に立ち尽くしていた。

俯いて微動だにしない久居へ、菰野が数歩近づいた時、大きな羽音が聞こえ空を見上げる。


何もなかったはずの空に、突如ミニサイズの空竜を小脇に抱えたレイが現れた。


ああ、消えていたんだな。と菰野が思う。

最近は菰野もすっかり、それぞれが使う術を不思議がらなくなってきた。

自分も使えれば良いのにと思うも、あいにく菰野には素質が無いらしく、どれひとつ出来そうにはなかった。


レイが、相変わらず着地から数歩、勢い余って向こうへ行くのを眺めてから、菰野は久居に向き直った。


さて、どうしたものか。

俯いたまま、ひたすらに立ち尽くしている久居を前に、菰野がわずかに肩を竦める。


「菰野、すまないが俺達は行く事になりそうだ」

背中からかけられたレイの言葉に、菰野が振り返る。

「そうだね。何か必要なものがあれば声をかけて」

「ああ、助かる」

レイの腕からするりと抜け出した空竜が「きゅい」と鳴いて久居に一通の手紙を差し出す。


「……空竜さん、ありがとうございます」

久居は静かにそれを受け取った。


「空竜? なんでわざわざ久居に渡すんだ……?」

俺の方が先に会ったのに、とレイが何やらぶつぶつ言いながらしょんぼりと家に入って行く。

空竜も、リルを探してかキョロキョロと辺りを見回してからレイに続いて家に入った。


それを見送ってから、菰野は口を開いた。

「久居、どうして行きたくないんだ?」

受け取った封筒を開けないまま立ち尽くしていた久居の肩が、びくりと揺れる。

「……そのような、ことは……」

「俺が、頼りないからか」

「いえ、決して!」

菰野の言葉を、久居は必死に否定する。

そんな従者に少しだけ困った顔で微笑んで、菰野は栗色の髪を揺らして問いかける。

「じゃあどうし……」

「菰野様は、十分に成長なさいました。私が居らずとも、立派に身を立ててゆける事は分かっています。

 ですが、世の中には予測しきれないような危険も沢山あります。

 突然盗賊に襲われるやも知れませんし、急な病に侵されるやも知れませんし、地震や火事があるやも知れません。

 そんな時に、菰野様のお側にいられないとしたら、私は……私は…………」

菰野の言葉を遮って、堰を切るように話し出した久居は、言葉の終わりにやっと顔を上げて菰野を見た。

心底不安そうな久居の表情に、菰野は苦笑する。

「久居は本当に心配性だなぁ……」

菰野は、黒い瞳を覗き込んで柔らかく微笑むと、自分より背の高い黒髪に手を伸ばして、久居の頭を自身の肩に引き寄せた。

「お前は俺の事を心配してばかりだが、俺だってお前が心配でならないんだと、分かってるのか?」

結われた長い髪を撫でて、菰野がクスクスと笑う。

「お前達にはこれから実戦があるんだと、分からないほど馬鹿じゃないぞ。普通は戦地に赴く者を見送る方が、心配するものだと思わないか?」

「…………申し訳、ありません……」

しゅんと謝る久居のしおらしさに、菰野がまた笑う。

「じゃあこうしよう。久居が帰ってくるまで、俺は師範のところか、山の小屋で暮らそう。それなら、たとえ風邪をひいたって一人にはならないだろう?」

菰野の提案に、久居が戸惑いながら顔を上げる。

「それは……」

「久居はどちらが良いと思う?」

久居の目を見て、菰野が意見を求めた。

「そう……ですね。小屋の方が、他の人間が寄ることもないので安心ですが、他に助けを呼びにくいという難点も……」

顎に指を当て真剣に考え込む久居。

その様子に、菰野は小さく微笑んだ。

「落ち着いたか?」

「っ、…………はい……ありがとうございます」

久居は、恥じ入るように身を縮め、頭を下げる。

それを目を細めて見ていた菰野が、急に真剣な顔になる。

「じゃあひとつ。これは命令だ」

菰野の声は、柔らかい響きはそのままに、声の高さだけを落とした。

「俺の手の届かないところで、勝手に死ぬ事は許さない。お前は必ず、俺のところに帰って来るんだ。いいな?」

真っ直ぐに久居を見るその瞳には、まるで祈る様な切実さがある。

久居は息を呑むと、その栗色の瞳を精一杯の誠意で見つめ返す。

「はい。必ず戻ります」

久居は、たとえどんな事があろうと、必ず生きて菰野の元へ戻ると、強く強く心に誓った。

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