39話 役割(前編)

翌日、レイは大気の四環のうち二環、陽と雪を持って天界へ飛び立った。


空は青く高く、頬を撫でる風はひやりとしている。

久居は、空の高さに秋の訪れを感じていた。

夏はむしむしと暑かったが、最愛の主人と再会できる時が日毎に近付く事に、不安と、それ以上の喜びを抱えた日々だった。

けれどここからは、再び訪れる別れへ、時を数えることになるのだろう。

叶うならば一日でも長く、と願ってしまいそうな心に、いざという時に躊躇わないための覚悟を握り込む。


昨日、レイが昏睡している間に、久居はカロッサと相談を済ませていた。

ひとまずはレイの義兄、キルトールの指示には、こちらがよっぽど困るような内容でない限りは逆らわずに様子を見ることになっている。


真っ直ぐ空へと昇ってゆく天使の後ろ姿が小さくなると、リルは朝の勉強道具を大机の上へ広げ始める。

カロッサもそれに付き添うのかテーブルへと向かった。


菰野は、そんな二人の動きを確認しながら、いまだに空をじっと見上げたままの久居の横顔を見る。

その眉に僅かに力が込められている。

そして、握り込む拳にも。


言葉にできない決意を、こうやって手の中で握り潰すような仕草は、菰野のよく知る義兄も見せていたな。と菰野は懐かしく思い返す。

まだ菰野の中で、大切な兄を思い出には出来そうにない。

……それでも、もう兄は思い出の中にしか居ないらしい。

菰野はせめて、記憶の中で微笑む兄を一人も失わないでいたいと願う。

生活が落ち着いたら、思い出せる限りの兄の事を書き出そう。

それまでは、できる限り日々の中で兄の姿を思い返しながら過ごそう。と。


そんなことを考えていると、久居はようやくこちらを振り返る。

後ろで一つに括られた黒髪がさらりとなびいて、悲しみと決意を宿したままの黒い瞳が菰野を映す。

菰野は、この何でも一人で抱え込もうとする、覚悟過剰気味の従者を少しでも解そうと、なるべく柔らかく微笑んだ。


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レイは、おやつ時を回った頃には、二環と引き換えに二通の書簡を持ち帰った。


「預かり証かしらね」

呟きながら、カロッサはレイから一通を受け取る。

久居が手の中に力で作られた小さなナイフを出すと、カロッサはその手紙を久居に渡した。

開封された手紙は、またカロッサの元に戻る。

菰野は、そんな二人を見ながら、カロッサはこの場の中で久居を一番信頼しているようだと感じていた。


リルは、後ろからぴょこぴょこカロッサの手紙を覗き込んでいたが、面白くなさそうだったのか、視線をもう一通の手紙へと移す。

「そっちのお手紙はー?」

レイの手に残った手紙についてリルが尋ねると、レイが少しはにかんで答える。

「……これは、俺宛てだ」

両手で、さも大事そうにレイが胸元に抱え込む封筒に、リルが「えー、誰からお手紙ー?」とさらに尋ねる。


久居は、何となく先が読めてしまい、すでにうんざりした気分になりそうだった。

「久居君、これ読める?」

カロッサの差し出した手紙には、久居の読めそうな文字は見当たらない。

「申し訳ありません」

と謝る久居に、カロッサが要約した。

「陽と雪は、浄化したら、天界が責任持って正当な持ち主を探して、人間に返すんだって、書かれてるわ」

カロッサが該当箇所と思われる文面を指しながら説明する。

「こちらへはもう、戻ってこないという事ですか」

久居が確認するように呟いた。

「そういう事ね」

「……しかし、正当な持ち主というのは、もう……」

「それでも無理矢理作り出すんだと思うわ。正当な持ち主っていう人間を、ね」

カロッサは、心底嫌そうな顔で言った。

レイがこの場にいなければ、その台詞にはもっと天使への悪態が混ざっていたのかも知れない。

久居は、カロッサが天使を嫌う理由についても、そろそろ探っておく方が良いのかも知れないと思いつつ、嫌悪の滲んだ紫色の瞳を盗み見た。


「なーんだ、レイのお義兄さんからのお手紙なんだー」

リルのつまらなそうな声がする。

「なんだじゃないぞ、義兄が俺に手紙をくださるなんて、めっっっったにないんだからな!!」

レイが必死に大事アピールをしているのが耳に届いて、カロッサも久居と同じくうんざりした気分になる。

「そっちは、なんて書かれてるの?」

カロッサに問われて、レイがシャキンと背筋を伸ばす。

「はっ、えっ……?」

レイは、手の中の手紙と、自分を見つめるカロッサの顔を交互に見て、じわりと頬を染めて俯いた。

「……まだ読んでおりません……」

しょんぼりと答えるレイに、カロッサは「何か知らせるような事があれば教えてね」と告げると、面白くなさそうに立ち去った。


久居は、懐から懐中時計を取り出し確認する。

まだおやつに遅過ぎるほどの時間ではない。

細い肩を小さく怒らせている不機嫌そうなカロッサに、せめて何か甘い物でも差し入れようかと、久居は調理場に向かおうと歩き出した。

すると、菰野が後を付いて来る。

「菰野様?」

問われて、菰野が聞き返す。

「飲み物を用意するのか?」

足早に歩く久居の隣へ来た菰野は、三年前のままの身長だ。

あの頃はまだ、拳一つ分ほども離れてはいなかったが、今の身長差は当時の倍に広がっている。

久居は自分の隣をトコトコと小走りについてくる主人を、なんだかとても幼く感じてしまう。

「はい。それと甘味をご用意しようと思います。菰野様も召し上がりますか?」

久居が思わず表情を緩めて尋ねると、菰野は柔らかな表情のままに答えた。

「俺に、お茶の入れ方を教えてくれ」

ピタ。と久居が足を止めた。

それに遅れて、少し先で立ち止まった菰野が振り返って尋ねる。

「……駄目か?」

菰野は、久居を真っ直ぐ見上げている。

久居は息が止まる気がした。

「いえ……、そういうわけではございませんが、お茶くらい私がいつでもお入れしますよ」

足を進めつつ、平静を装ってそう答えながらも、久居は、それがただの嘘だという事に気付いて胸が軋んだ。

そうでない日が来る事を知っていながら、言うべき言葉ではなかったと。


菰野は、そんな久居を慰めるようにふわりと笑って「そうだな」と答えた。


温かな微笑みは、久居の心に沁みる。

久居の主人は、六つも歳下となってもなお、何も聞かないままに、久居の心を守ろうとしてくれていた。

詳しい話もされず、突然人ではない面々に囲まれて、本当に不安なのはきっと主人の方だろうに。

……私が不安を慰められてどうするのか。

久居は自身の不甲斐なさを猛省しつつ、考える。

天使が、久居を殺しに来る可能性について。

自分が菰野様のお側に居る事で、菰野様を危険に晒してしまうのは、間違いない。

そして、レイの義兄に秘密がもれてしまった以上、その日は今日かも明日かもわからなかった。

それまでに何としても、菰野様がお一人でも生活できるように、知恵と技術を伝えておく必要がある。


調理場に着いた久居は、棚から茶葉を取りながら、迷いを振り払うように一瞬きつく目を閉じた。

慎重にいつも通りの顔を作って菰野を振り返ると、菰野は優しい栗色の瞳を向けていた。

「まずは何をしたらいい?」

「そうですね……。菰野様はお茶の種類をどのくらいご存知ですか?」

そうして、久居はお茶の入れ方を、その種類や道具の名前から丁寧に教え始めた。

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