36話 覚醒と失神(6/7)

ビシッと小さな音がして、クザンが手元のカップに視線を落とすと、木で作られたそれに、亀裂が入っていた。

「げっ」

「あー、ちょっと、クザン壊さないでよ」

カロッサに横から言われて、クザンが「やっちまった……」と凹んでいる。

クザンは実に丸くなったなと、カロッサは思う。昔のクザンなら、今のタイミングで絶対逆ギレしてた。うん、間違いない。


「おかわりはいかがですか?」

その声に二人が顔を上げると、久居がボトルやカップを乗せた盆を手に微笑んでいる。

「おう、頼む。これ割っちまった、悪いな」

「私ももう一杯だけ、もらっちゃおっと」

カロッサがウキウキ答える間に、久居は「構いません、お気になさらず」とクザンのカップを取り替え注ぐ。

カロッサはぼんやりと、我が家にもこんな執事がいたらいいのに、と思った。


「リルは寝たのか?」

「はい」

「あいつはほんとに良く寝るなぁ……」

「育ち盛りですから」

リルの寝顔に優しい目をする久居の横顔が、まるで母親のそれだとカロッサは思う。

(違ったわ。久居君は執事じゃなくて、あれね。皆のお母さんね。毎日皆にご飯食べさせて、夜はレイ君もリル君も寝かし付けてるものね)

カロッサ自身もしっかり久居の世話になっていたが、そこには触れない。あえて。

うんうんと深く頷きながら、久居を眺めるカロッサの視線に、久居は何かよからぬ気配を感じつつも、彼女は酔うと大抵こんな感じなので、ひとまず気付かなかったフリをする。


かわりに、久居はクザンへ気になっていた事を尋ねた。

「クザン様は、カエンという鬼をご存知ですか?」

「……まあ、知らん事はないな」

クザンがなんとも言えない反応をする。


カエンがクザンを恨む理由や、あの大量虐殺の理由を明確にしておけば、今後有利になることもあるかと思ったのだが、触れない方が良かっただろうか。と久居が内心躊躇う。


「そうですか……」

「なんだ? あいつとなんかあったのか?」

「いえ、クザン様に拘りがあったようでしたので。もしよろしければ、ご関係をお伺いできれば有難いです……」

申し訳なさそうな久居に、クザンが少し眉をしかめて、苦々しく答える。

「火焔(カエン)は、一番上の姉の子で、……俺より十歳年上の、甥だ」

クザンは、ほんの少しだけバツの悪そうな顔で一言足した。

「そんでまあ……、俺以外、兄弟に男はいない」

それはつまり、クザンが生まれるまでの十年の間、カエンはクザンの父にとって家督を継ぐはずの立場だった。と言うことだろうか。

それが、後から生まれたクザンに、その立場を取られた形になったのだろう。

当然逆恨みではあったが、動機は久居にも納得できた。

「……ご教授、感謝致します」

久居が、既に十分理解したという様子で頭を下げ

「もうひとつよろしいですか?」と尋ねる。


「例えば、それが人為的であっても、気温の変化による死亡は自然死に含まれますか?」


クザンが、さらに渋い顔になる。

「なんだあいつ……まだそんなことやってんのか」


その口ぶりからするに、カエンは今までにもこんなことを企てる事があったようだ。


「どのくらい死んだ?」


クザンの低く静かな声に、久居も静かに答える。

「六百は、下らないかと思われます」


「六百!? 死に過ぎだろ。これは親父も気付くだろうな……」

暗い目をして、ぐいっと残りのお茶を飲んだクザンが、向こうですやすや眠るリルに視線を移す。


「リルも見たか、死体を」

「……申し訳ありません」


久居が深く頭をさげる。

難しい顔をしていたクザンが、人懐こい笑顔に少しだけ悲しみを残して苦笑する。

「だから、お前が謝る事じゃねーんだよ」

わしわしとクザンに頭を撫でられて、久居の口元がじわりと弛みそうになった時。

ゆらり、と少し離れた場所に気配が生まれた。


サッと警戒態勢をとる久居に、クザンが心配いらないという風にひらひらと手を振る。


ゆっくりと草陰から現れたのは、見上げるほどの巨大な馬を背に背負って、ぜーはーぜーはーと派手に息を切らした、汗まみれの変態だった。


「く、玖斬様、お待、たせ、致しましたっ」

「おう、遅かったな」

「も、申し訳、御座い、ません……」

ドシャッと派手な音とともに、ヒバナが膝を付く。


その背から、ずるりと馬が滑り落ちた。ズドンと地響きを立てるその馬は、食用馬なのだろうか、とても大きい。


「まあ、それ千キロはあるからな」

クザンが苦笑しながら、落ちた馬をヒョイと拾うと、久居にどこで捌くかと尋ねる。

「ではこちらに……」と案内されて、通りすがりにヒバナの頭をポンと叩く。

「ご苦労だったな」

「ああああ有り難きっお言葉っっっ」

ヒバナが緩み切った顔で答えてから、慌てて「お供しますっ」とクザンの後を追いかけた。


馬は、クザンが思ったよりもずっとあっさり、久居によって皮を剥がれ、使いやすいサイズに刻まれてゆく。

木に吊るそうにも大きすぎたその巨体は、クザンが持っておくと言ったのだが

「いけません玖斬様! 危険です!!」

と、代わったヒバナがその長身を活かして支えている。


久居の手の中で、力の刃は用途に合わせて変幻自在にその形を変えていた。


「いつの間にそんなの覚えたんだ?」

「カロッサ様にご指導いただきました」

「火焔(カエン)とやる前には、使えてたのか」

「はい」


カエンの名に、ヒバナが反応する。

「火焔様が……たかが人間と?」


クザンはそれには答えず質問を続ける。

「お前に穴を開けたのは、火焔か?」

「いえ、名前は分かりませんが、別の鬼です」

「そうか」

クザンが少しだけ、ホッとしたような表情になる。

その様子に久居は、カエンを現在恐慌状態に陥らせていることはまだ伏せておこう。と思った。


「火焔様の元に居る鬼は、お嬢様を除けば二人だけのはずです。刺し傷でしたら、烈黒でしょう。

 随分前にツノを折ってやった事がありますが、残り二本も折っておきましょうか?」

とヒバナがクザンに言うが

「もういい、余計な恨みをかうな」

と止められた。


久居は、あの鬼のツノが片側にのみ二本生えているのを見て、バランスが悪くないのだろうかと思ったものだが、生まれつきのものではなかったらしい。


「おい変態、体調はもう戻ってるな?」

「はっ」

ヒバナがビシッと姿勢を正す。


「久居も、これ食って血を補っとけよ」

「ありがとうございます」

「予定よりちょいと早いが、次の新月にまた来る。

 あいつら、出してやろうぜ」

クザンが、親指で小屋の方を指しながら、ニッと笑う。

そこには、フリーと菰野が眠っていた。


「は、はいっ!!」

久居が、飛び上がりそうな勢いで姿勢を正す。


あまりに素直に嬉しそうな顔をする久居を、クザンが満足そうに見てから、スッと険しい顔になり、久居の肩を掴んだ。


「お前の主人は治してやるが、その後殴るからな。止めるなよ」


クザンの表情は真剣そのものだ。


「わ……わかり、ました……」


久居は、そう答える他なかった。

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