OCT.カヌキさんはお留守番
10月
ほとんどの準備は終わって、後はもう出発するだけだ。
比較的簡単に留学できるのは、親とお姉ちゃんがわたしを自由にさせてくれていることと、援助を惜しまないことによる。普通は、そんなにうまくいく筈がないことくらい分かっている。実家が裕福で良かったと思うのは、こういうお金が必要になる時だけだけれど、正直、それはとてもありがたいと思うし、自分はかなり人より恵まれているし、甘やかされているということを改めて思い知らされる。ただ、そこに胡座をかくような人間にはなりたくない、というのが二十歳そこそこの未熟者のわたしの矜持だ。
それはさておき、下宿代については、また頑固者の恋人と揉めた。
最初は、この家から
「
ここで待っていてくれるのはありがたいけど、さりげになんか、余計な考えも混ぜて述べていらっしゃる。
「お母さんに連絡して、架乃がいない間の家賃の分、出世払いってことで前借りする話になったから」
なんですと!!
「だから、安心して」
「安心できるわけないじゃん!勝手に決めないでよ」
大きな声を出してしまった。
落ち着こう。ここはダイニングキッチン。テーブルには深弥とわたし。わたしは都田架乃。よし。見当識はおかしくなってない。深弥はわたしの大声に動じず、じっとわたしを見ている。いや、これ睨んでる?
「私、一人で住むんだから、架乃がお金を出すのはおかしいでしょ」
「おかしいよ!ここは二人の家なんだから、わたしもお金を出すのが当たり前だよ。……まあ、親の金だけど」
しばし言い合いとなるが、途中で気付く。
「架乃がいないんだから、仕方ない……」
あ、深弥、いじけてるんだ。いじけて意地になってる。別に韻を踏みたかったわけじゃないけど、そう思った。
手を伸ばして、その頬に触れる。
触ってみて分かる。深弥は、最近、少し痩せた。
わたしのせいだ。
「深弥、ここを『わたし達の家』って呼ぶためにも、わたしに今まで通り、家賃の半分を持たせて」
「架乃、ずるい、こういう時にそうやって上目遣いでお願いするの」
「…こういう時だからこそ、効き目のある必殺技を使うの」
上目遣いのおかげでなのか、なんとか深弥は折れてくれた。
でも、小さな家とはいえ、ここで一人で暮らすのはどれほど寂しいだろうと思うと、胸が痛い。
ーーーーー
出発の日まで1週間を切った。
一昨日、昨日と深弥は、「現実逃避する」とか言って、二日連続でなんか変な映画を観ている。
わたしはちょっと大学で教授と話し合ったり、学生課に行ったり、送別会があったりとなんやかんや用事があって、一緒に見ることができなかった。
一昨日、帰ってきた時に深弥にどんな映画を見たのか尋ねた。
「SFホラー、宇宙人が地球人を誘拐するモキュメンタリー。ははは、ハズレかなあ」
元気なく深弥は答えた。
昨日、帰ってきた時にも深弥に何を見たのか尋ねた。
「スリラーかと思ったらSFホラー、宇宙人が地球人で実験している話。ははは、途中まで面白かったし、ハズレじゃないんだけど、ラストちょっとぶっ飛びすぎかな」
昨日も元気なく深弥は答えた。
そして、今日。朝から雨が降ったり止んだりで、気分もちょっと上がらなかった。大学に行って最後の手続きを終えた。
帰ってくると、深弥はまた映画を見る準備をしていた。授業とか実験とか大丈夫なのかと心配になるけれど、今のわたしは、深弥を心配できる立場ではないし、きっと、深弥はいつか現実逃避をやめて、深弥なりに歩き始める筈だ。
「今日は、何を見るの?」
「スリラーだと思うんだけど、なんか変なSFホラーらしいの。宇宙人出てくるのかなあ。何が変なんだろう」
宇宙人SFホラーの珍妙な映画ってどれくらいあるんだ?
「今日は、一緒に見ていい?」
多分、一緒に映画を見るのは、これが当分最後になる。
深弥がソファーベッドの隣のスペースを開けてくれたので、そこに座った。今までみたいに後ろから抱えるのではなく、並んでテレビを見る形だ。
留学が決まってから、わたし達の間には距離ができた。
もちろん、嫌いになったとかじゃない。
一緒のベッドで寝てるけれど抱いてない。もうすぐ離れるのに、今、抱いたら離れられなくなっちゃいそうだし、それに、この間、無理やりやってしまって、自己嫌悪と罪悪感が抜けてないってのが大きい。
そういや、あんまりキスもしてない。
触れたいけれど、触れた後に手を離すのが嫌だ。だから触れられなくてもどかしい。
飛行機事故で幼い息子を亡くした母親が立ち直れない中、いなくなったというだけでなく、母親以外の周囲の人から息子の記憶が消え、映像記録や形見までも消えていき、次第に息子の存在そのものが消えていくという話だった。
「この女優さん、アカデミー賞とか獲ってる人で、子供を失った慟哭とか迫真の演技なんだけど、何がそんなに変なのかな…」
深弥が、画面の赤毛の女優さんを指差す。
怖い、ところは特にないが、子供を必死で探す母親がシリアスだ。
わたしがいなくなったこの家で、わたしの存在がだんだん消えて行ったらどうしよう、と考える。
深弥は主人公みたいに、わたしを消さないように走り回ってくれるだろうか、それとも、わたしを忘れてしまうだろうか。
忘れられてしまう、と考えて、ぶるっと体が震えて、わたしは両手で両肩を抱え込んだ。
「寒い?」
それに深弥が気付いたけれど、わたしは首を振って、大丈夫だと伝えた。すると、深弥は体をピッタリとくっつけてきた。
温かかった。
大丈夫、深弥はわたしを忘れたりはしない。
その時だった。
主人公は女刑事と一緒に謎を追っていたのだが、その女刑事に大変なことが起きたのだ。女刑事は、斜め上からの予想外な形で画面から突然姿を消したのである。
ぶ、
笑いそうになってわたしは堪える。笑ったら深弥に怒られるかと思ったからだ。
「ぷはっ」
しかし、当の深弥が堪えきれずに吹き出した。
「はは、あははっはははは」
それで、わたしも笑いを抑えきれなくなった。
こんなに笑えるのに、映画は依然シリアスに展開し続け、さらに、主人公の協力者も、同じ斜め上からの演出でまた画面から消えた。
「はははっはは、おかしい、おかしいよ、これ」
深弥も遂に大きな声で笑い出した。
ストーリーには一欠片もコメディ色のないSFスリラーなのに、全てをぶち壊しにする演出が目立ちすぎる。
「こ、これは迷う方の迷作だわ」
「この演出考えた監督どうかしてる」
二人で涙が出るくらいに笑って、なんか、オチもけっこうひどくて、そこでまた大笑いしてしまった。
エンドロールになっても笑いが止まらなくて。
ああ、こうして二人でばか笑いして、怖い映画を見て、一緒に夜を過ごして、そうやってずっと。
ずっと。
気が付くと、深弥は笑っていなくて、じっとわたしを見ていた。
「深弥?」
「明後日ですね。ここから出ていくのは」
わたしは頷いた。
「もう、よっぽどのことがない限り、架乃は行ってしまう、よね」
もう一度頷く。
「絶対に行くよね」
何が言いたいんだろうと訝しみながら、更にもう1回頷く。
「じゃあ、ここから先、私が何を言っても、何をしても、絶対に絶対に出て行って」
「え?何それ」
深弥はじっとわたしを見た。わたしを見詰めながら、眼鏡を外して、手探りでソファーの背もたれの上に置いた。
そして、その顔が近付いて来たので、わたしはそれを受け止める。ただ受け止めるだけ。それ以上にしてしまうと離れ難くなってしまう。
私が何を言っても、何をしても、絶対に絶対に出て行って
それはどういう意味なんだろう
合わせられていた唇が離れた。
「…いで」
深弥が目を開けて、わたしの目を間近で覗き込みながら呟く。
「…行かないで、ずっと私と一緒にここにいて、行かないで」
私が何を言っても、何をしても、絶対に絶対に出て行って
その言葉の意味が嫌でも分かった。
遂には、深弥はわたしに縋りついて、大きな声を上げる。
「行かないでっ!架乃、留学なんてやめて!行かないで!!」
深弥は、行かないでと繰り返し繰り返し泣き叫んだ。最後には、もう何を言っているのか分からない、悲鳴のような泣き声になっていた。
「深弥、ごめん、ごめんね、ごめ」
深弥は唇でわたしの謝罪を止めた。
「謝らないで」
さらに、掠れ声で、わたしを黙らせて、わたしの頬に唇を寄せて、顔の輪郭を辿らせる。顔から耳、首筋へ、顎へ。鎖骨へ。
深弥の手がいつの間にか服の下に入り込んでいた。
わたしを引き止めるように。この体のどこに触れば、わたしを引き止められるのかを探すように、手が指が、わたしの体を這い回る。
触れたい。でも離れられなくなる。
だから、距離を取るしかなかった。
でも、もう何を言っても何をしても、わたしは絶対に出て行く。
だったら、…だったら。
降り始めた雨が窓を激しく打つ。
わたしの声と深弥の吐息が雨音でかき消される。
雷の光と音と、感覚で、体の震えが止まらなくなる。
雷鳴が鳴り響く。視界が真っ白になる。
何度も。
「一緒に、…一緒にいよう、いてよ、架乃…!!」
静まる、その一瞬に、深弥がうめく。雨音にわたしの名を呼ぶ声が消える。
ーーーーー
翌朝
目が覚めると、もう深弥は先に起きていて、朝食の準備を終えていた。
「おはよ、架乃。お風呂にお湯張ってあるから入ってきて」
いつもの、はにかんだような笑顔と、少し幼い声質にそぐわないしっかりとした口調。
近付いて、手首を掴んで抱き寄せようとしたら、すっと体を離して逃げられた。
わたしの手を反対の手で抑えて、深弥はゆっくり首を振って拒絶し、苦笑いをした。
「…帰ってくるまで、もう何もしない」
頑固者はまた意地を張り始めたらしい。
もう、深弥は、わたしを引き止めはしないということが伝わってきた。
「それじゃ、深弥が足りなくて、わたしがつらすぎなんだけど」
わたしも苦笑いする。
ちょっと嘘だ。
昨日の夜
わたしたちは必死でお互いを満たした
満ちることなどない穴の空いた器に水を注ぐようなものだったけど
それでもわたしたちは満たされたのだ
今は
ーーーーー
深弥は空港まで見送りに行くと言ってくれたけれど断った。
この家で待っていてほしいから。
「行ってらっしゃい」
「行ってくるね」
まるで、今日の夜、帰ってくるかのように挨拶をする。
でも、1年半は帰ってこない予定だ。
わたしたちは、出会って、2年半。付き合って1年半。一緒に暮らして10か月。
それよりも長く遠く離れて暮らす。
キスでもハグでもなく、
深弥はわたしに握手を求めてきたので、力を入れずその小さな手を握り、数秒で手を離した。
手と手が離れる瞬間、深弥の指がわたしの指をなぞった。
深弥が一番好きな、映画の中のラブシーンのように。
後ろで引き戸の玄関を閉めた。
数歩、歩いた時、後ろになった「わたし達の家」の玄関から、わたしの名を泣きながら叫ぶ声が聞こえた。
聞こえない振りをして、右手の親指と小指で両目の目尻の涙を拭った。
わたしは歩みを止めたりはしない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ネタにした映画タイトル
「フォーガットン」(2004)
「フォース・カインド」(2009)
「運命のボタン」(2009)
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