第31話 早く逃げましょう

「っ」

 足をつかまれてまた床に倒れる。あんな鞄じゃ一時の足止めにしかならないよな。

 また攻撃が始まるかと身構えるが、両足と両手を手早く縛り上げられてしまった。

「おいっ、れんをどうするつもりだ?!」

「うるせえ! お前には関係ねぇんだよ!」

 布を殴るような音と、小さい呻きが聴こえる。

「っ」

「やめろ!」

 手も足もがっちりと縛られているのか、解ける気配がない。幸い、床や壁に固定されてはしなかったから、ずりずりもがいて壁に寄る。俺にはもう、こうすることしかできない。

 全力で壁を蹴る。小屋が揺れた。だから何度も壁を蹴る。

 蹴り続けていると、外からガチャガチャという音がして、勢いよく戸が開いた。

「誰かいるんですか?!」

 真野さんだ。ようやく来てくれた。

「……くそっ」

 戸口にいる真野さんに体当たりするように、男が逃げようとする。

 真野さんは足元の絵を持って、角で男の頭を殴った。

 男がその場に倒れ込んで動かなくなる。

「……殺していませんよね……?」

「多分……って、大丈夫ですか?! 一体なにが?!」

 真野さんが小屋の照明をつけて、すぐに恋の元へと向かう。

 辺りを見回して、自分の周囲にぞっとした。

 柱に縛り付けられた状態で座っている恋と目が合う。きちんと揃えられた両足首が、麻紐で拘束されているのが見えた。真野さんがせっせと紐を切っていく。

「恋……生きてるな?」

「……古賀先生……!」

 珍しく恋が笑顔を消して俺を見上げる。

「ひどい怪我です。早く病院で診てもらわないと……」

「俺のはほとんど打撲だから大丈夫だ。お前が行方不明だったから、心配して、みんなで探してたんだからなっ……お前こそ、無事なのか?」

 はっきりとは見えなかったが、音からして相当殴られていたに違いない。それでも、恋は笑った。

「私は……なんとか無事です」

 顔は傷一つないが、服が汚れている。痛いのを我慢しているんだろう。どこまでもいつもの恋に、不安が広がる。

「真野さん、恋を解放したらそいつを拘束してください。恋を監禁していた犯人です」

「いえ! 古賀先生を助けるのが先です」

 真野さんが俺の縄を切ってくれたから立ち上がろうとするが、もうとにかく体中が痛い。痛いながらなんとか起き上がって、歩けることを確認する。

 真野さんが倒れている男の傍に屈んでいる。

「よかった。気を失っているだけです」

 念のため救急車も必要だろうか。俺の携帯電話は小屋の外に放置してある鞄の中だ。

「真野さん、携帯電話ありますか? まず警察に連絡を」

「あっ、そうですね」

 当たり前に通報をしようとした真野さんに、恋が飛びついた。

「そんなことより早く逃げましょう」

 珍しく恋が焦っているように見える。

「こいつはこれから拘束するし、警察の人が来るまでここで待機してなきゃならないだろ」

「だめです。古賀先生はすぐに病院に行かないといけません」

「病院に行くにしても、まず警察に電話してからでもいいだろ?」

「真野さん、古賀先生と早く逃げてください。警察には私が連絡しますから」

 恋はどうしてこんなに必死なんだろう。全くいつもの恋らしくない。言っていることもおかしい。いつも一番の正論をぶつけてくるのは恋なのに。

「……もしかして、警察を呼ばれると困るのか?」

 恋が黙った。

「お前は被害者だろ? こいつとは顔見知りなのか?」

「…………」

「恋。一体なにがあったんだ?」

 それでも恋はなにも答えない。

 真野さんが彷徨わせていた携帯電話をポケットにしまって、こちらを向く。

「……俺は、恋ちゃんも早く病院に行った方がいいと思います」

「真野さんまでなにを言い出すんですか」

「恋ちゃんは警察の人に来てほしくないんだよね? その方が恋ちゃんにとって都合がいいってことかな?」

 恋が微かにうなずいた。

「そういうわけです、古賀先生。恋ちゃんのためにも、このまま病院に行きましょう。俺が送っていきます」

「でもな……」

 なんとか恋を助けることができたからいいものの、その犯人を捕らえることができるのに見逃すなんて、到底納得できない。せめて理由が知りたい。

 でも、恋は何も言わないんだろう。こいつは意外と頑固だと、俺は知っている。

「……はあ……わかった。今は何も訊かない。じゃあ、救急車だけ呼ぶぞ? 電話したら俺たちは救急車を待たずに病院に向かう。それでいいか?」

 恋の小さな口が控えめに開く。

「……はい。ありがとうございます」

「古賀先生、救急車は俺が呼びます。ここの住所もすぐ言えますし」

「お願いします」

 真野さんが電話をしている間に小屋から出ると、恋がついてきた。

「古賀先生、どうして、真野さんがここに……?」

「驚いたことに、ここは真野さんの家なんだ」

 恋から、それは嘘に決まっていると言いたそうな種類の視線が注がれる。

 俺だって思いたくはない。こんな廃墟に平然と住んでいられるような人間がいるなんて。

 電話を終えた真野さんが小屋から出ようとして、中に戻る。

「あ! 窓が割れてる!」

 窓の怪我を心配した真野さんが、窓際に駆け寄る。まあ、普通は自分の敷地の窓が割れていたら驚くよな。

「申し訳ありません。戸が開かなかったので、俺が割りました」

 窓を割ったんなら、そのままカーテンも開ければよかったのにな。明るければ成人男性に勝てたかというのはまた別の話だが、人は冷静じゃないと何をするかわかったもんじゃない。

「そ、そうですか……古賀先生と恋ちゃんが無事なら、それでいいです」

 真野さんは変な人だけど、やっぱりいい人だ。


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