2章
第19話 知らん
六月に入り、春の柔らかい日差しが強くなりかけてきた。昼食を終えた昼休みの教室で机に伏すと、日の光が心地よく背中を温めてくれる。今日はなんと素晴らしい昼寝日和なんだろう。
「古賀センパイ!」
昼寝の準備に入った途端、ふた月前に妹の屍蝋化を俺に依頼した折倉春湖が、二年の教室を訪ねてきた。俺の患者である梨夏の体は今、春湖の部屋にいる。
元気な笑顔で俺を呼んだ春湖は、ひと月ほど前までどん底気分だったとは思えないほど明るい。
「折倉……どうした?」
「恋と遊びにきたよ」
春湖の後ろから、恋が顔を出す。
「こんにちは」
「
「カエサルの真似ですか? 私はブルータスではありませんよ」
恋の変わらない穏やかな微笑みも、すっかり見慣れた。
「あああああああああっ!!」
背後からとんでもなく喧しい声がした。
「理一! おま、お前っ、恋ちゃんにツッコミを入れてもらえるなんて、何事だ?!」
「……うるさいな。お前が何事だ」
「ちょっと来い!」
「恋ちゃんってツッコミ気質なのか……?」
多分そうだけど、草加が知らない恋の情報を俺が知っていると面倒なことになる。とぼけよう。
「知らん」
「じゃあ、恋ちゃんにツッコミを入れてもらえるお前が特別なのか?!」
わかった。これ、なんて答えても面倒なやつだ。
「知らん」
「理一! どういうことなんだ?!」
今にも掴みかかってきそうな草加から逃れ、春湖と恋が待つ教室の戸口に向かう。
春湖が不思議そうに、草加を見ている。
「草加センパイ、急にどうしたの?」
「さあ? 夢見でも悪かったんじゃないか?」
「夢見……? なにそれ?」
「あいつもお年頃だから、色々あるんだろ」
「ふーん?」
俺と春湖のやりとりを、恋は穏やかに微笑んで見ている。
「そうやって無関係みたいに傍観してるけどな、そもそもお前のせいなんだぞ……」
「はい? 私ですか?」
「そうだ。嫌じゃなければ草加のところに行ってやってくれ」
「わかりました」
まだ教室の隅で打ちひしがれている草加に、恋が声を掛けに行く。草加は文字通り飛び上がって慌てふためいている。あいつ、恋に対しては常に挙動不審だな。
「……俺、草加とは一年の付き合いになるけど、本命にはあんな風になる奴なんだな」
「やっぱり、草加センパイって恋のこと好きなんだ」
「見ていてわかるか? なら、俺が隠す必要は特にないんだな」
草加は笑いたいんだか泣きたいんだかはっきりしない顔をしている。大きな身振り手振りで話す草加と、いつもの静かな笑顔で首を傾げている恋が対照的すぎる。
「でも、あれじゃ普通の女の子はドン引きだよ」
「久連木は普通じゃないから案外上手くいったりして」
「ないない。それはない」
判断基準はよくわからないが、女の子から見て草加はアウトらしい。いい奴なんだけどな。ご愁傷様。心の中で草加に向けて合掌した。
放課後、部活動をしていない俺は真っ直ぐに帰宅する。
喉が渇いた。リビングの床に学生鞄を下ろす。冷やしてある緑茶でも飲もうと、冷蔵庫を開けたところでインターホンが鳴った。新聞の勧誘だろうか。
ドアスコープを覗き外を見ると、恋が立っている。疑問に思いながらもドアを開ける。
「どうしたんだ? 今日の依頼はないぞ」
「はい」
「とりあえず上がれ」
既に用はないだろう俺の家に訪ねてきた恋を、リビングに通す。
「これ、私が持ったままだったのでお返ししようと思いまして」
恋は俺がすすめたソファに腰を下ろし、鞄から一冊のノートを取り出した。
「あ、屍蝋カルテ」
「はい。梨夏ちゃんのものです」
現時点では、完成させた屍蝋にも定期的なメンテナンスが必要だ。放置しすぎると劣化し、変色したり皮膚が剥がれ落ちたりする恐れがある。目標は、メンテナンスが不要なほど完璧な屍蝋を最速で作ることだ。そのために、日々の研究は欠かさない。
屍蝋カルテは患者に、いつ、何を、どれくらい、どうしたのか、を書き残しておいたもので、より完璧な屍蝋を作るための参考資料だ。
梨夏の屍蝋を作っている間は、カルテの管理は恋に任せっきりだった。
「学校でお渡しするのはどうかと思ったもので、伺いました」
「たしかに学校ではまずいな」
恋にノートを手渡されたとあっては、草加がショック死しかねない。恋からノートを受け取りながら、昼の草加の鬱陶しさを思い出す。
「そういやお前、好きな飲み物はなんなんだ?」
恋に茶でも出そうと立ち上がった時、再びインターホンが鳴った。今度こそ新聞の勧誘、と思わせて咲嘉さんだろうか。来る予定は全くないが。
「ちょっと待っててくれ」
「はい」
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