第46話



 潮騒が……特に聞こえてこないな。車の中だからな。


 スケジュールに押されることのない仕事というのは、こんなにも気楽なものなのか?


 黒猫と車でやって来た、近県は海の傍。


 自分には縁のない海水浴場沿いの道路を走行中だ。


 とても仕事中とは思えない程にリラックス。格好もトレーナーにジーパンという平日のおじさん仕様。車の外へ出る時のためにモコモコしたダウンとマフラーも持ってきた。


 ……今は黒猫の下敷きになっているが。


 後部座席に乗せていた黒猫が、何を思ったのか走行中に助手席に移ったことが原因である。


 じゃなきゃ自身の衣類を黒猫の巣にする理由がない。


 なーに、かの有名な関白猿も、主人の履き物を懐で温めたというではないか。


 体格に劣る猫が全霊で献身していると思えば…………。


 ああ、そうだ。働きに対して褒美が出るのは当然の報い。


 あとでたっぷりと支払ってやるのが主人の務めなんじゃないかと愚考。


 覚えてろ……いや、覚えておこうじゃないか、うん。


 トンネルばかりのカーブを抜けて、見えてきたのは水平線。


「おー、海だ」


「海ニャ?」


 夏場なら人でごった返すであろう、今は無人の海水浴場。天気の良さと穏やかな海とで奏でる同系統の二色ハーモニー


 海に来たという実感が沸々と湧いてくる。


 どこかで感じる高揚感。


 特に思い入れも無いのに不思議なもんだ。


 おじさんの青春に海が関係したことなんて無いのにな……。


 むしろ人生に於ける青なんて顔色以外で使うことがあっただろうか?


「やめようや……悲しくなるだろ?」


「ど、どうしたニャ? いきなり……。ニャンコ何も言ってないのニャ」


「畜生には分からんだろうが、人間っていうのは、海を見て悲しくなる生き物なんだよ。おじさんという生物なまものはそれがより顕著なんだよ……」


「……大丈夫かニャ? 今からそこで、お仕事するのニャ……」


「仕事は別腹だから」


「たぶん意味違うニャ」


 ああ言えばこう言う生物せいぶつだね、この不吉の象徴は。


「さて、ここら辺で泊まれる場所を探したいところ……なのだが」


「宿、無かったのニャ?」


「なんか都心の方ばっかなんだよな。絶対あってもおかしくない筈なのに……」


 海水浴場が目の前なんだよ? 泊まれる所の一つや二つ、無い筈が無いよなぁ。


 そう思ってパソコンにて予約を取ろうとしたのだが、何故か一つもヒットしないという結果になった。


 シーズンじゃない筈だから幾らでも空きがありそうなものなのに……。


 温泉が併設されるところや、初日の出で有名な行楽地が近いなどのアピールなんかがあるならまだしも。


 夏に一般開放されるというだけの海水浴場近くの宿泊施設が軒並みリザーブされるなんて異常事態おかしいもいいところ。


 分かってる。


 おじさんも馬鹿じゃない。


 予約サイトの回り方が下手とかではない。


 これはそう――――



 きっと何かでもあるのだろう。



 おじさんが知らない隠れた名スポット。そんなもの幾らでもあるだろうしね。昨今の若人の流行りなんかおじさん的には首を傾げるものばかりだから。オフシーズンの映えスポットとかじゃないかと名推理。


「だから民宿的なところを探そうと思うんだ。ネット予約とかやってなさそうなところを。夏場はともかく、冬場ならそんなに競争率も高くないだろうしな」


「魚の美味しいところがいいニャ〜」


「猫かよ」


「猫ニャ」


 いいえ、バケモノです。


「じゃあ、俗物かいぶつくん。目を皿のようにして探してくれたまえ」


「あいあいニャー」


「いや猫なの? 猿なの?」


 前肢を窓の縁に置いて後ろ肢立ちする妖怪変化。


 そうしていると猫っぽい。


 前肢が無くとも二足歩行が可能だと知らなければだが。


「でもこっちは海ばかりニャ。宿っぽいのなんて無いニャー」


「そこはあれだ、看板とか探してくれ。小さいのだと割と見落としたりするから……」


「あったニャ」


「話が早い」


 追い付けないぐらい。


「どこ? なんて書いてあった?」


 仮にもハンドルを握っているので脇見など以ての外。あったと豪語する同乗者に内容を訊いてみる。


「民宿『かたぎ』って書いてあったニャ。ちょっと戻って見てみるニャ」


「……そこ大丈夫? ビール一本で二桁万円られたりしない?」


「自らカタギを主張してるニャ。一般人ニャ。きっと大丈夫ニャ」


 違う。ここで猫が言う一般人とおじさんが考える一般人はきっと違う。


 仕事は終わったとばかりに巣へ戻り丸くなる毛玉。おじさんはそれに不満を持ちながらも、他に当てもないので車を戻すことに。


 今度は運転席側から見えるであろう看板を探す。


 ……黒猫が声を上げたのはこの辺りだったかな?


 ちょうど小さな駐車場があったので入ってみた。


 十台も車を停めればいっぱいの、海水浴場に繋がっているであろう駐車場。奥の所に砂浜へと続く階段もある。


 シーズンならまず停めることは適わないであろう人気スポット。今はガラガラ。


「あった……」


 そこの端の方にあった朽ち掛けの看板に、黒猫の言った通りのことが書かれていた。


 白いペンキを塗ったであろう手作り感のある木製の看板に黒い字で。



 民宿『堅木』 お気軽にご連絡ください



 連絡を躊躇させる何かを発しながら……。


 ……やってないんじゃないだろうか? 簡単な地図も書かれていて、割と近くにあるらしいのだが……。


 少なくとも七桁の電話番号じゃ繋がらないと思うんだ。


 看板の虫食い具合からして、相当に古い。


「これ……大丈夫かなぁ」


「行かないニャ?」


 いや、行く行かないの前に、存在しないんじゃないかってのが問題であって……。


 まあ、いいか。


「無駄足になりそうな気がするんだが……駄目元で向かいつつ、他に泊まれそうな所があったらそちらに行くということで」


「なんでもいいニャ。いざとなったらここでもいいニャ」


「そりゃお前は猫だから」


 最悪の場合は車中泊であろうことも考えて布団も持ってきてはいるが、できることなら泊まりたいじゃないか。


 領収書で落ちるかもしれないしさ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る