第25話
眼が慣れるとまだ太陽の出る前の朝で、でも月はなくて、遠くのビルは空と雲のビル。
歩き始めてみて自分が疲れていることに気付いて、壁の側で座る。ズックに体を預けて眼を瞑る。
でも眠れない。
野宿なんてしたこともない。
それでも少し休まなきゃ、力を抜こうと努力する。なのに休まなきゃと思えば思う程に眼が冴えて、立ち上がる。壁を背に真っ直ぐに歩き出す。
すぐに階段に当たる。上る。視線が下がる。足元の石段しか見えない。
階段は短くて、すぐに上り切って、顔を上げたら道ではないところに入っていた。
小さな店。二階建ての一階がやっている。
「美容院だ」
客はいなくて、店長らしき人が椅子に座って本を読んでいる。
「こんにちは」
ドアを開けて中に入ると、その男性が視線を私に移す。
「いらっしゃい」
「ここは美容院ですよね」
「そうだけど、お姉さんなんだか疲れてるね」
「ずっと歩いて来たからかな」
「髪を見ればその人の体調は分かるよ。髪を美しくするにはまずは疲労を取らなきゃ」
でも休む場所なんてない。
「ご飯は食べてる?」
「一応。アカリンゴが多いけど」
「ちゃんと寝てる?」
寝る場所がない。
「疲れてると気持ちも後ろ向きになるからね。うちは髪のためなら何でもやる方針なんだけど、ご飯食べてくかい? 一晩寝てから髪を切るかい?」
「そんな、厚かましいこと出来ません」
「違うよ。僕が最高に髪を切るための下準備だよ。だから必ず切らせてくれると約束して欲しい」
「でも、この髪型が、色が好きなんです」
男性は首を振る。
「やりたいことはわかるけど、整えないと。ショートカットはメンテナンスが大事なんだ。もちろんお姉さんの意向に沿って切らせて貰うから。どう?」
「でも人様の家にいきなり泊まるなんて」
男性は眼を瞬かせる。
「いや、普通でしょ。どこでもやってることじゃない」
「そうなの?」
「少なくともこの界隈ではね」
そうなのか。私の常識は向こうの世界の常識で、こっちの世界の常識ではない。
「じゃあ、お願いします」
「はい。今日はもう店じまいにして、ご飯を作るから、その間部屋でゆっくりしてて」
男性に連れられて二階に上がると部屋がいくつもあって、その内のひと部屋に通された。
「ちょっと待ってて」
男性が持って来たのはシーツと枕カバー、布団カバー。
「これを自分でセッティングしてね。お風呂は流石に貸せないんだけど、ごめんね」
「いえ、十二分です」
男性が階下に降りて行って、私はドアを閉める。部屋の半分がベッドで埋まっている。窓から見えるのは澄んだ朝の空。
ベッドメイキングをして、日記を出す。スカンクの家を出てから一度も書いてないから書くことがいっぱいある。一つ一つを思い出しながら書いている最中に下から「出来たよ」の声が掛かって、「はーい」と娘のように返事をして一階に降りる。
食事の香りを頼りに店の奥側に入って行くとダイニングがあって、でっかいお皿に生姜焼きが盛られている。匂いと景色に、涎が走る。
「じゃ、そこに座って」
「はい」
生姜焼きと白いご飯とみそ汁が美味しくて、美味しくて、彼も何も言わないから私も黙ってもりもり食べた。
「ごちそうさま。すごい美味しかったです」
「よかった。後片付けもいいから、ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
せめて流し場に食器を持って行ってから、部屋に帰る。
ちゃんとした食事を食べたのはいつ以来だろう。スカンクと作っていたのも食事ではあったけど、ちゃんとしたのとは少し違う。どこか満足に足りないような食事だった。今はお腹の中が丸になっている。私は旅人ではないのだ。
パジャマに着替えて布団に入る。カーテンを閉めれば夜と何ら変わらない。
あ、違う。
起きて日記の続きを書いて、今日の分まで書き終えてから再び布団に入った。
地面に横たわるのと全然違う。お腹がいっぱいだからかも知れない、眠気が緩やかに私を連れ去る。
アカネコが私を見ている。
「君はどこにでもいるんだね」
「どこにでもはいない。いるべきところにいる」
強い風が二人の間を通って、私は帽子を押さえる。
「帽子なんか被ってたっけ」
「あとは脱ぐだけだよ」
「私は正しい道を歩いてるって分かってるんだ」
「君が歩いた道が正しくなる」
「あともう少し、もう少しなんだ」
「飛んだときに、いつ飛ぶべきかは分かるよ」
アカネコはぷいと後ろを向いて消える。
私はもうアカネコを追わない。
どれくらい寝たのだろう。熟睡感に溢れている。体への力の入り具合も全然違う。
カーテンを開けると寝る前と同じ朝。
昨日までの私がどれだけ疲労していたかが寝て起きてみて分かる。昨日は歌えなかった。今なら歌える。
二度寝する必要はないから、服を着替えて階下に彼がいないかを見に行く。
「お、よく眠れたかい?」
「とっても。海になったみたいに眠りました」
「じゃあもう睡眠はいいね。シーツとかを一階の洗濯場のカゴに入れておいて貰えるかな? それが終わったらもう一食食べて、髪を切ろう」
「分かりました」
シーツ類をカゴに入れてからズックを背負い一階に下りる。
今度のご飯はハムエッグとご飯とみそ汁。
「よし、切るよ」
彼は心底嬉しそうな顔をする。
バーバーチェアに座って、鏡を見ると確かに伸びてバランスが悪くなっている。
「この下の方を整えるって感じにしよう。染めるのはもう少ししてからにしないと髪を痛めるから今回はナシ。まずはシャンプーから」
されるがままになっている間にカットは進み、もう一回シャンプーの後ブローを貰って、出来上がり。
「どうかな?」
手入れのされた髪、の輝きを自分の頭に見付けた。
「すごくいいです」
「半分は僕の技術。半分は食べて寝たからだよ」
「だから体調を改善させることに拘るの?」
「そうだよ。最高を求めてその手段が明らかなら、する以外ないでしょ」
「する以外ない」
「それが求道者の生き方ってもんよ。お姉さんも何かを追い求めてるでしょ? 分かるでしょ」
私が求めている?
「そう見えますか?」
「だってそうじゃない。匂いで分かるよ」
私はやっぱり、そうなのかな。迷っているフリをしているだけで、本当はもう求め始めているのかな。
「まだ明言は出来ないんです」
「うん。そういうフェーズはあるよ。でもね、お姉さんはこっち側。泊まるのを声掛けたのもこれが大きな理由だよ」
私は整えられた自分を鏡に見て、首を左右に振ってみる。髪がさら、さら、と揺れる。今の髪がこっちの世界に来てから後の全部を引き受けているみたいに見える。
「きっともうすぐ、宣言します。この髪が乱れる前に」
彼は嬉しそうに笑う。
「記念に立ち会えるなら髪を決めた僕も嬉しいよ」
退館票を書いて貰って、出発するところまで見送ってくれた。
「本当に、色々ありがとうございます」
「髪のためだから、気にしないで」
どっちから来たか覚えてもいない。出た方向にそのまま歩いて行ったら、美容室は消えた。
出た先に階段はなくて、多分別のところに出てるけど、もう大丈夫。進もう。
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