第9話
扉の向こう側は、夜だった。
振り返るとさっきの三人は確かに昼の中にいる。もう一度前を見る。紛れもない、夜。
「ドアをそっちから閉めてくれ」
試験官の声も霞むことなく聞こえる。
「さようなら」
扉を閉めると全部が夜になる。だけど明るい。
下半分の月が線香花火の最期みたいに大きく光って、星が空一面に瞬いている。
扉から続くレンガの壁は昼側と同じにどこまでも続いている。レンガの一つにハートの落書き。
空と雲のビルの続きにあたる左側は、星月夜が映り込んでいるのかな、それともそこにもあるのかな、夜が描かれている。ここはきっとはじっこだから、レンガに沿って歩く。
中間的距離が認識出来ないのは、昼のときと変わらない。
歩く。
夜空の明るい、レンガの方こそ夜闇のよう。
もっと歩く。
てんとう虫は動かないし、アカネコも出て来ない。同じ景色が続く。
ずっとレンガの横を行ったら反対側の夜の壁に着くのかな。
後ろを振り向いたらもう入って来た場所は遥かに遠くて、もうかなりの時間を歩いている。
もう少し行ってみよう。
もう少し。
もう少し、あ。
座る。
「夜に来たし、ここまでの日記を書いとこう」
ミドリキャベツと虫様、ユキ、美術館、卵の試験。ハートの落書きが、印象に強くてページの終わりにハートを描く。何かが腑に落ちて、顔を上げたらレンガに同じハートがあった。
それだけ。だけどここが曲がる場所だ。
道はあって、それとも私が道なのかな、歩を進める。
振り返ってもレンガの壁は消えない。少しずつ小さくなって、いずれ認識出来ない空間に溶けた。
月が正面にあるから見上げながら歩く。
今にもぼとりと落ちて来そうな月の塊。そのとき月の上にいる人は、こっちの世界が月に落ちて来るって感じるのかな。
月から目を下ろすと、小屋がある。その周囲を見ても認識の出来なさは変わらなくて、ぽつんと小屋だけが現れた。扉は閉ざされていて、だからノックする。
「はいはい、何でしょうか?」
扉を開けた若い男は何かの作業中のような服を着ている。
「ここは何かをするところですか?」
「施設とかじゃないですよ。僕のアトリエです」
「邪魔だったら帰りますけど、中を見てもいいですか?」
「どうぞどうぞ。ちょうど作品が完成したところです」
男は上気した顔で迎え入れる。
入ると中央に額、イーゼルに乗っている。両手を広げても入らなくらい大きい。
「見てもいい?」
「もちろんです」
額の正面に立つと、額の内側に別の額が、その内側にもさらに額が、と額が続いていて、最終的に掌くらいの大きさのスペースが真ん中で反射している。覗き込むと、鏡だった。映ったピンクの髪の私。
「これは何?」
「写真立てです」
もう一度作品を見る。
彼は黙って、それ以上の説明をしない。
私は作品の真ん中に映る自分の顔を膨らませたり、顰めたりさせる。
「この作品も美術館に出すんですか?」
「出しませんよ。仲間に見せたり、街中とかで展示するんです。美術館に入れないことにも意志があります」
「独立してる?」
「まさにそうです」
周囲を見渡せば、絵とか木材とか、柔らかそうなものから硬そうなものまで色々な道具とかが、整然とは言えないまでも部屋のそこかしこに並んでいる。
「何をしているの?」
「芸術です。僕は芸術家です」
芸術家って何だろう。彼は少なくとも表現の手段を絞ってはいなそう。
「よく分からない」
「芸術ってのは、ドアをノックする作品のことです。それを作るのが芸術家」
「ドアって、こころの?」
「はい。開けるのは本人です」
だったらzarameは芸術家だ。私のドアは激しくノックされて、私はそのドアを開けて、だから今ここにいる。でも、だったらこれまでに芸術作品と言う名目で会って来た多くのものも、彼の写真立ても、芸術じゃない。
「ノックが空振りすることもあるの?」
「殆どが空振りですよ。鍵と鍵穴みたいなものですから」
「よかった」
「でもそのノックは、他の何ものでも代用することが出来ない価値です。一人にでもそれが出来たら、その作品は生まれた意味があります」
「お兄さんの『写真立て』もそう言う誰かに出会えるといいな」
彼はちょっと固まって、私と写真立てを見比べて、ほんの少し伏目がちになる。
「そうですね」
「ありがとう、私、行くね」
アトリエを後にする。彼は見送りには来なくて、私が出たら静かに扉を閉めた。夜でもやっぱり三歩退がれば建物は消えて、認識不能の中に埋まったことを確かめてからもう一度アトリエのあった方に進む。こっちが前だから。
彼の定義によればzarameは芸術家だけど、私にとってはもう少し強い何かのような気がする。
アトリエは復活することなく道になって、私はzarameの歌を歌いながらそこを通過した。
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