第92話
ただの一言だった。
それだけで簡単に仁内の心が揺れる。
向けられたその目は、完全に彼を信じ切り答えを求めてはいなかった。
仁内なら必ずついて来てくれる、そう分かっている目。
そんな目をされれば、彼にはもう選択肢などなかったのだ。
「……仕様がねぇ。てめぇに何かあったら困るからな。……行ってやるよ」
「だよね!」
灯乃が満面の笑みを浮かべると、仁内は照れ隠しに赤面した顔をサッと逸らした。
そんな信じ合っている様を見せつけられて、斗真は更に不快に目を俯かせる。
灯乃にとって黒に近づくことは、凄く恐ろしいことの筈なのに。
本当は消えたくないと思っている筈なのに。
彼女にその選択をさせてしまっている自身にも腹が立つが、何より彼女を支えている存在がもう一つあることに、斗真は僅かながらに嫉妬を覚えた。
「待て」
斗真の視線が灯乃へ向き上がった。
「お前の覚悟は分かった。だが、今のまま迎えば、それこそ本当に救い出して最期(おわり)になるぞ?」
「でも、他に方法が……」
「白へ近づく術を準備しておく。三日鷺の欠片の回収だ」
強い口調で言い放つ斗真の言葉に、二人が互いに見合わせて息を呑んだ。
決心がついたというより、半ば自棄(やけ)になったように吐く斗真。
けれど彼らしいというべきか、きっちり先のことを見据えた上で、それを告げていた。
「朱飛らを追うってことか?」
「それもあるが、叔母上が先だ。聞いた話じゃ、三日鷺の刀を砕いたのは一部の山城家の者たちらしい。叔母上なら他の欠片の行方を知っているかもしれない」
斗真はそう応えると、灯乃たちは確かにと頷いた。
本当は真っ先に雄二を探し出したかったが、灯乃はそれを口には出さなかった。
黒になるかどうかが左右される状況で、勝手な都合を押し付けられない。
けれどもし、この場に春明がいたならば、提案くらいはしてくれていただろうか?
ふと彼のことを考えると、何となくあの眼が思い出されて、灯乃はポッと密かに頬を赤らめた。
と、その時。
「仁内様っ」
使用人が一人パタパタと駆け込んできて、口を開く。
「お連れ様がお目覚めになられたのですが、如何いたしましょう?」
「連れ……みつりの奴か!」
彼女の存在を思い出したのか、仁内は舌打ちした。
そういえば、気絶したみつりを連れてきていたのを失念していた。
まだ処遇を考えてはいない、どうしたものか。
「酷く動揺なさっていて、私たちではどうにも……」
「え……みつりって、どうしてここに……?」
灯乃は彼女の名前を聞いて、目を見開いた。
そういえば朧気な意識の中で彼女の姿を見たような気がする。
――もしかしてあの場で巻き込んでしまった……!?
「私、行ってくるっ!」
すると灯乃が声を上げ、急いで向かおうと走り出した。
きっとみつりを巻き込んでしまったのは自分のせいだ。
灯乃ならそう思うだろうと斗真はそう察して、すぐに彼女へ口を開いた。
「灯乃」
「えっ」
わざわざ呼び止めた声に灯乃が振り返る。
「お前の気持ちには感謝している。だが、お前を道具として連れて行く気は更々ない。だから――使える内に、なんて二度と言うな」
「斗真……!」
斗真のその諭す言葉に、灯乃は目を丸めるもしっかりとゆっくり頷いた。
思わず涙が出そうになった。
道具のように利用するのではなく、共に戦う仲間として認めてくれている。
それが嬉しくて嬉しくて。
けれど泣いてしまったらきっと困らせてしまうから。
灯乃は気づかれないように顔を俯かせながら、使用人と共に部屋を飛び出していった。
「おい、斗真」
そんな時、仁内が彼を呼ぶ。
斗真が振り向くと、その表情だけで何を言おうとしているのかが分かり、険しい目つきに変わる。
「お前も、簡単には解放されたくない口か」
「あいつ一人を黒になんてさせねぇよ」
「……死ぬぞ?」
「怖かねぇよ」
仁内は躊躇うことなく斗真にそう告げた。
彼の中で、黒になることがそれほど恐怖と感じていないのだ。
いつも自分のことしか考えてこなかった仁内を見てきた斗真にとっては、驚くべき変化だった。
けれど理由は分かっている――灯乃が彼を変えたのだ。
彼女が仁内の中でどれだけ大きな存在であるか、斗真も分かってしまったのだ。
だからなのか、仁内にも斗真の気持ちが分かり、口を開く。
「斗真。てめぇが何を迷ってんのか知らねぇが、灯乃のことを考えてやってるなら、気ぃ抜いてんじゃねぇよ」
「そんなつもりはないが?」
「春明が――《あの眼》を灯乃に使っててもか?」
「…………何、だと?」
仁内のその一言に、斗真は表情を固まらせた。
春明は斗真にとって誰よりも頼りにしている存在、その彼が灯乃に――
「忘れるなよ、灯乃は女だ。奴にとっちゃ、あいつも例外じゃねぇってことなんだろうよ」
「そんな……春明が…?」
斗真は手で口許を覆うも動揺を隠し切れずに頭の中を真っ白にさせた。
そんな彼を余所に、仁内は灯乃のあとを追いかけようと歩き出す。
斗真もすぐに行かなければと分かっているものの、上手く思考が働かず立ち尽くし、強烈な眩暈に襲われた。
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