第85話
春明の中で、押さえ込んでいた黒いものがじわじわとにじみ出てくるようだった。
するとその時、灯乃が突然ハッとした様子で春明の方を向く。
「……大丈夫? 春明さん」
「え……あたし?」
どういう訳か急に春明の心配をする灯乃。
意味が分からず彼は妙な戸惑いを表情に浮かべると、灯乃が少し言い難そうにモジモジしながら呟いた。
「……その……春明さんって、雄二のこと……好き、みたいだし」
「……あぁ」
気になっている相手がいなくなって心を痛めている、おそらく彼女はそう思っているのだろう。
そんな風に言われると春明の癖なのか、つい考えさせられてしまう。
――心を痛める、か……はたして痛めているのだろうか?
「……ショックよねぇ。せっかくタイプだったのに」
とりあえずの返答をする春明。
けれどショックとは言うものの、それがダメージに繋がっているのかと訊かれれば、自身のことであっても手を拱いてしまうところだ。
だからなのか抑揚がなく、感情のこもらない声が出る。
しかし灯乃はそれを言葉通りに受け取ったようで、顔に力を入れて彼を見た。
「あのっ、元気出して。雄二ならきっとすぐ戻ってくるから。じゃなきゃ、私が連れ戻すし!」
「えぇ?」
灯乃は励まそうとしているのか。
そんな彼女に、春明は茫然とした。
無知というか、単純馬鹿というか。
きっと斗真達からすれば、これを純粋と呼ぶのだろう。
そうやって誑し込まれたのだろうか、この少女に。
確かに彼女にも全くその気がないのは分かるが、だからこそ余計にタチが悪い。
そもそもこんなものに斗真達が引っ掛かることにも呆れてしまう。
春明はそう思った。
「なあに、あたしを慰めようとしてんの?」
「えっ、そりゃあ春明さんにもいつも笑ってて欲しいし、せっかくの美人さんが台無しでしょ?」
「ふーん」
表裏のない、まっすぐな答え。
清廉潔白とでも言わせたいのか。
――虫唾が走る
どうにかして真っ白なこの少女を黒く塗りつぶしてグシャグシャにして引き裂いてやりたい、そんな気持ちに春明は駆られた。
イケナイこと。斗真が知ったらどれ程の反感を買うか。
けれど春明の口元が、悪意を帯びた嘲笑に歪む。
「それじゃあ――慰めてよ」
「――え……?」
彼はグラスをそっと側へ置き直すと、空になった手を灯乃の手元へと伸ばした。
その手がグラスを持つ彼女のそれに触れると、そのまま少しだけ持ち上げ、春明は灯乃のストローに口づける。
チュルチュルとワザと音をたてるようにして、ゆっくりとジュースを飲み干していけば、そんな彼の唇がヌルリと色っぽく光った。
途端に灯乃はドキッとする。
そこは先程まで自身の唇が触れていた場所、何だか恥ずかしい気持ちになる。
それに、彼の顔もすぐ触れられるくらいに近い。
視線も手元におりているせいで、彼の長い睫毛がより一層優美に灯乃の目に映った。
――なんて綺麗な人
そんな時、灯乃はハッとする。
相手は春明、女友達のように接していた彼に見惚れてしまうなんてどうかしている。
それに気づいてか、灯乃は慌てて手を払い除けようとした。
だが、グッと強い力で押さえ込まれ、それを止められる。
「――駄目。まだ足りない」
低い声で囁かれた。
ビクリともしない力に包まれ、手に熱がこもる。
いつの間にかグラスの中のオレンジ色は消え、白銀の冷たさだけが残っていたが、それもすぐに溶けてしまうのではないかと思う程に熱く感じる。
強くて大きな手。
女装していても、彼がまぎれもなく男性であることを示していた。
ドクドクと心臓の音が響いてくる。
「あっあのっ、ジュースなら春明さんのがまだ……っ」
取り残された彼のグラスに目を向け、灯乃は春明から何とか顔を背けようとした。
がその瞬間、頬に温かなその手が添えられ引き戻される――彼のもとへ。
そして――
「ねぇ、あたしの眼を見て――灯乃」
彼の、艶やかなその眼を、灯乃は見てしまった。
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