第70話
「潔子っ!しっかりしろ!!」
奈村がみくりを突き飛ばし、倒れた潔子を助け起こした。
「潔子っ……」
潔子は切れ切れに息を吐き出しながら、奈村の服をぎゅっと握り締めた。息を乱して泣く妻を腕に抱き、奈村はほっと肩の力を抜きかけた。
だが、すぐにきっ、と目をつり上げ、みくりを―――みくりに乗り移った悪霊を睨みつけた。
「私の妻と娘に手を出すなっ!!私は、お前を許さないぞっ!!」
みくりの姿をした悪霊は、じとっと暗い目つきで奈村を睨み上げた。その目つきは、生前とまったく同じものだ。
自分は悪くないのに、どうして自分を叱るんだ。どうして思い通りにならないんだ。と物語る、澱んだ目。
激しい嫌悪を感じて、奈村は強く歯を噛みしめた。
「みくりから出て行けっ!!この家から出て行けっ!!」
奈村が腹の底から怒鳴ると、悪霊は眦をぎりぎりとつり上げて憤怒の形相になった。
そして、大きく後ろに飛びすさったかと思うと、ぱっと身を翻して家から駆け出て行った。
「待てっ……!!」
縋りつく潔子を離して後を追いかけたが、奈村が家の外に出た時には既にみくりの姿は消えていた。
「みくり……っ」
焦燥に駆られて、奈村は車庫に駆け込んだ。ズボンのポケットからキーを取り出し、エンジンをかける。暗い夜道をライトで照らして、車を走らせながらみくりの姿を探した。
パジャマで裸足の女の子だ。こんな夜中に、遠くへ行ける訳がない。
だが、辺り一体をいくら走り回っても、みくりの姿を見つけることは出来なかった。
「くそっ……っ!!」
腹立ちのままにダッシュボードを殴りつける。
その時、ライトの明かりの中に、探していたのとは違う見覚えのある姿が浮かび上がった。
一瞬、見間違えかと思った。
だが、静かに立ってこちらを見つめるその姿は、紛れもなく奈村の恩師のものだった。
「小野森議員っ……」
驚愕する奈村の目の前で、小野森はすっと道の向こうを指し示した。そして、消えた。
奈村は咄嗟にブレーキを踏んだ。そのまま、しばしハンドルを握り締めて茫然とする。
真っ白な頭に、自分が後継者など恐れ多いと引き下がろうとした奈村を叱咤した小野森の言葉がよみがえる。
『お前は大変な悪意に晒されてもそれに潰されなかった。それは、お前が宮城さんのような「人」に恵まれていたからだ。それだけ恵まれておいて、市議ごときで恐れ多いなどと情けないことを言うな!今まで恵まれていたのだから、今度はお前が返すのだ』
そうだ。お世話になった宮城社長や小野森に恩返しがしたくて、がむしゃらに頑張ってきた。それなのに、結局、小野森は自分のせいで―――
ばんっ
不意に、フロントガラスを叩かれて、奈村はハッと我に返った。
辺りに人の姿はない。
奈村は、すーっと息を吸い込むと、意を決して小野森が指さした方へと車を走らせた。
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