第38話




 救急車のサイレンが耳に届いた。どんどん近づいてくる。

 稔は不安に胸を焦がしながら鳥居の見える位置で待っていた。そこへ、石段を登ってきた文司が姿を現した。ふらふらになりながら鳥居に向かって歩いてくる姿に、思わず声を掛ける。

「樫塚!」

 文司が顔を上げた。

「倉井……」

 ほっと息を吐きながら、震える手に持った本を差し出してくる。

「これを……頼む……」

 よろよろと鳥居をくぐってこちらに向かって歩いてくる。その文司の背後に、ぼうっと、湯気が立つように白い靄が沸き起こった。いや、靄などではない。らんらんと、光る目が文司を見ている。妄執を漲らせて、獲物を見ている。

 稔の目にははっきりと、自分勝手な欲望に囚われて悪霊と化した少女の姿が見えた。

「樫塚!」

 稔は咄嗟に文司に向かって駆け出した。少女の姿がゆらっと揺らいだ。靄のような少女が、文司めがけて飛びかかってくる。稔の脳裏に竹原の死因が蘇った。

 稔は文司の腕を引っ張り自身の方へ引き寄せた。文司を背中に庇うようにして、自分が前に出る。無意識にそうしていた。

 目の前に、霊の手が迫っていた。実体のない少女の手が、稔の胸元に突き入れられた。

 瞬間、氷水を注ぎ込まれたように心臓が縮み上がった。一瞬、息が止まる。冷たい感覚は痛みとなって、心臓がじくじくと痛み不規則な動き方をして稔の息を乱す。

 胸を押さえて倒れ込みながら、衰弱している文司だったら危なかった、と稔はどこか冷静に考えた。

「倉井!」

 地面に膝をついた稔に、文司が駆け寄ろうとするが、稔はそれを制して護摩壇を指さした。

「持って行け……っ、早くっ」

 咳き込みながら言うと、文司は寸の間逡巡したが、すぐに身を翻して駆け出した。稔も胸の痛みを堪えて立ち上がり、文司の後を追った。

 このまま、文司の手で赤い本を火にくべれば、すべて終わる。後は黒田が始末してくれるだろう。それでこの悪夢は終わる。日常に戻ることが出来る。

 だが、少女の霊は再び文司に躍り掛かった。

「っ樫塚!避けろっ!」

 稔の叫びに、文司が咄嗟に身をかわす。体には当たらなかったものの、掴んでいた本が弾き飛ばされ地面に落ちた。少女の霊が、ニヤリと笑った気がした。

 その目が地面に落ちた赤い本に向かうのを見て、稔の背中がさわっと総毛立った。

 少女が本に手を伸ばすのを視界に捉えた瞬間、稔は弾かれたように走り出していた。

 いけない。あの本を渡してはいけない。

 あれは、この世にあってはならないものだ。

 稔は倒れ込むように地面に身を投げ出して、少女の手が届く寸前に本を掠め取った。

 少女が怒りで目を光らせ、稔に向かって突っ込んでくる。だが、稔に手を掛ける寸前で、耳障りな悲鳴を上げて少女がのけぞった。

 厳しい顔つきの黒田が、ゆっくり歩いてきて稔の前に立った。

「行け」

 稔と文司に短く命じると、黒田は少女を睨み据えた。

 稔は立ち上がって護摩壇に向かってまっすぐに走り出した。本を持った腕を大きく振りかぶる。

「樫塚もっ、竹原も……っ」

 燃え盛る炎の中に本を放り投げて、稔は叫んだ。

「死んでもお前のものにはならないんだよ!!一人で勝手に死にやがれっ!!」

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