第36話



 声が聞こえる。酷く慌てているような声。

 誰の声だろう。

 文司は靄がかかったような頭で考えた。

 ずっと寒くて仕方がなかった。寒くて寒くて、体が動かなくて、目を開けるのすら億劫になった。このままではいけないという焦燥はあったが、いつしか何かを思うことすら嫌になった。

 でも、今は――温かい。

 先程から、何か温かい物が文司の体に寄り添っている。その温もりが、文司の意識を暗い淵から引き戻した。うっすらと目を開ける。霞んだ視界に見覚えのある青灰色が広がった。

(なんだったっけ……これ……)

 文司が僅かに身じろぐと、頭の上から呻き声が上がった。

「救急車っ!」

 ずっと響いていた酷く慌てた声が、はっきりと意味を持って文司の脳を打った。

「石……っ」

 文司は驚愕に目を見開いた。自分に寄り添っていた温もり、自分の下になっていたものが何かを知ったのだ。

 道路に仰向けに倒れて苦しげに呻く石森の姿。

「石森……、石森っ!」

「馬鹿っ!揺すんなっ!」

 石森を揺り起こそうとした文司を、大透が羽交い締めにして引き離した。

「石森!」

「落ち着け!救急車呼んだから!」

「なんで……」

 なんで。なんでいつも、石森が傷つくんだ。

 自分を庇って上級生に殴られていた姿が脳裏に蘇る。いつもいつも、自分のせいで。

「おい、樫塚。お前はここで救急車が来るのを待ってろ」

 大透がそう言って肩を叩く。

「俺はこれを神社に……」

 地面に落ちた赤い絵本を拾おうと手を伸ばした大透だったが、指先が触れた瞬間、バチッと音を立てて火花が散った。

「ってぇ!」

 手を押さえてのけぞる。文司は大透が拾い損ねた本を見た。赤い表紙の絵本。そうだ。図書室の倉庫であれを見つけた時から、おかしなことが始まったんだ。

 あれが、あの本が原因だ。

 あれのせいで、石森が…

「くっそ、倉井を呼んでくるか……」

 大透が手を押さえたまま石段の上に目をやる。

 文司は弾かれるように立ち上がった。すっかり萎えた足がもつれかけるが、気力を振り絞って本に手を伸ばした。触れただけでびりびりと痛みが走る。だが、文司は歯を食い縛って本を掴み上げた。

「樫塚!?」

「この上に……、持って行けばいい、のか…?」

 文司は石段の上をぎっと睨んだ。手が痛んで指が痙攣する。足が震える。でも、込み上げてくる怒りが文司の体を支え立ち上がらせた。これまでのいじめっ子達にも感じたことのない激情が、文司の食い縛った歯をぎしぎしと軋ませる。

 許せない。石森をこんな目にあわせやがって。絶対に許すものか。

「……石森を、頼む」

 呆気に取られる大透に言い置いて、文司は石段に足を掛けた。

「気をつけろよ!」

 大透は一歩一歩石段を登る背中に声を掛けてから、石森の側にしゃがみ込んだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る