灰が降る街

早雲

灰が降る街

青空、白い雲、明るい日差し、彩度の高い草花、吹き出る汗、一縷の風、そして、灰。

私の街ではいつも同じ問題に悩まされる。道路には細かい、そして多量の砂埃のようなものが舞っている。火山灰が街に降ってきているのだ。

二酸化ケイ素やアルカリ金属を主成分としている小さな粒。当たり前だけれど、目に入ると非常に痛い。特にコンタクトレンズを使用している人にとっては地獄だろう。

さらに言えば、汗だくの身体には灰がまとわりつく。

何が言いたいかといえば、灰が降っている日は涼しい屋内にいるに限る、ということだ。

そのため私は自分の事務所で、(冷房が効いていて、全く灰がない事務所で)悠然とコーヒーを飲んでいた。今日は決して外に出ない。そう決意を固めてひとまず適当な文庫本に手を伸ばした。

ガチャ。

知っている。外に出ないと決めた途端、外に出ないと到底なし得ないであろう用事ができることを。

マーフィーの法則にもきっと載っている。

「灰が降っている日に部屋に篭ろうと文庫本に手を伸ばすと、外出しなければならない用事ができる。」


扉が開いた。灰が事務所に舞う。もう少し慎重に入ってきて欲しいものだ。

「おはようございます」

「おはよう」

「小説読んでたんですか」

「読もうとしていた、君が来なければ」

「なんでそんなに不機嫌なんです」

「君は明晰だか、目上の者に対する礼儀を知らないな。不機嫌な人間に何故不機嫌なのかと質問するな、不機嫌が増す。」

「不機嫌だと生産性が落ちますね。原因が分かればそれを取り除けるかもしれませんよ。建設的です。」

「なるほど。しかし不機嫌の原因に不機嫌かと尋ねられ、あまつさえそれを説明せねばならないとなれば話は別だろう。」

「まさか、僕が先生のご機嫌を損ねてます?」

「厄介事を持ってきただろう?」

「なぜ、そうと決めつけるんです?」

「今日、君は非番だ。なのに事務所に来た。電話もメールもできるのにわざわざ来た。電話でもメールでも話せないことがあるということだ。」

「つまり厄介事だと。おしゃべりしたいだけかもしれませんよ。」

「君とか?君と雑談するのだって厄介事に違いない」

「先生は人がお嫌いなんですね」

「人は好きだ。君が嫌いだ」

「あれま。何てことを。こんな好青年に向って言うことではないですね。」

大して気にもしていない風に好青年は言う。

アルバイト。パートタイマー。助手。手下。色々言い方はあるが、どれもしっくりこない。兎にも角にも彼はこの事務所のスタッフだ。所長の私を含めて2人しかいない。

「それで。本当に何の用だ?」

私も暇な身ではあるが、だからと言って男二人で痛くもない腹の探り合いをして喜ぶほど酔狂ではない。

「大学で知的財産権のセミナーがあんるんですよ。その運営に僕も関わっているんですけど、講師が見つからないんですよね。」

なるほど。

「それで、私に講師役をしてほしいと。」

「先生ならピッタリでしょう」

確かにそうだ。ピッタリすぎて裏がありそうだ。そもそも講師が見つからないのはそれ相応の理由があるはずだ。なにせこの青年はまともな案件を私に持ってきたことがない。

「それで」私が聞いた。

「それで?」青年が聞き返す。

「それだけで話は終わらないんだろう?」

「いいえ。それで終わりです。先生が知財についてウンチクを垂れて、学生が何かよく分からない法律の高尚さと遺伝子配列にまで独占権を主張する人間の浅ましさを痛感して。以上です。」

「つまりギャラなしか。」

「大学の組織側の運営なので教授陣も来ますし、この事務所のいい宣伝になるでしょう?」

思っていたより厄介な案件ではない。しかし期待値を超えたからと言って厄介に変わりない。マイナスの期待値がマイナスになっただけだ。そもそも何の給与もなく、特に使命もなく、分かりやすいスライドを作り、一張羅のスーツを着て、声を張って喋りたくはない。宣伝というならネットでもなんでも広告を出す方がいいだろう。

「先生。いけませんね。この消費社会でモノ、サービスの差別化は図り難いのです。実際に目の前でウンチクを垂れるスーツのオジサンにこそ何だかふはふはした暖かい信頼らしきモノを抱くのです。」

「君は人間性をバカにしすぎだ」

とはいえ、青年の言うことには正直一理あると感じている。私も彼ほどではないが人間性という言葉を(もしくはそんな言葉を盲信している人を)軽くみている自覚がある。

確かに人は実際の質や価格より見慣れたものにお金を払う。要は私を将来の顧客たちに見慣れさせれば良いということだ。もし私が使えそうに見えたなら将来の顧客たちは顧客たちになってくれるだろう。

「引き受けよう。ただし今日は外に出ない。もし手続きがあるなら明日以降にしてくれ」

「手続きは必要ないですよ。でも外には出てもらわないと。だって、今日が講演日ですから。」

やはり。「灰が降っている日に部屋に篭ろうと文庫本に手を伸ばすと、外出しなければならない用事ができる。」


私の職業を説明しなければならない。

とはいえ、私の現在の職業を明かしたところで、あまり私という人物を説明できる気はしない。

だから、私の前の職業から説明しようと思う。

私は研究者だった。

大学で博士号を取得し、就職難もほとんど影響せず大手企業の研究員の職を得た。専門は微生物学。

企業の研究をしていて思い知ったことがある。どれだけ事象として正しいことを主張しても、受け取る側の認知能力を超えてしまうと途端に拒絶されてしまうということだ。つまりバカにつける薬はないということだ。そしてそんな人間が社内での意思決定権を持っていたりする。

おそらく3年ほどは在籍していた。確かに日本社会の一部の組織でうまく立ち回るということは学ぶことが出来た。そして研究を生業にするためには、資金力のある組織に飼われるか、自分で資金を調達するしかないというとこも学んだ。私は後者を選ぶことにした。


私が現在の職業ー弁理士ーを選んだ理由は2つだ。独立性の高さ。ある程度の収益。

私はもう人に飼われるのは、少なくともそう感じながら生きるのはまっぴらだった。別に人並みの生活だっていらない。そう思ったから、卒業後の選択肢が極端に限られる博士課程への進学を決めたのだ。しかし、幸か不幸か、企業研究者としてのポストを得てしまった。ヒトは易い道に流る。それでも私はなけなしの力を振り絞って、なんとか弁理士試験に合格した。そして、職を辞した。



「先生。わかり易い講義ありがとうございます。聴いていた阿呆学生たちもきっと知的財産とはなんぞやということがわかったと思いますよ」

青年はいう。

「阿呆学生とはとんだご挨拶だな」

この青年だってこの大学の学生だし、そもそも私の母校だ。

私のコメントを柳に風と受けながし青年はいう。

「先生、よく準備が間に合いましたね」

もしかするとこれは青年の愛情表現の裏返しかもしれないという塵芥の様な思考が脳内に紛れ込んだあと、その思考を除くのに2、3秒を要してから私は応えた。

「以前別件で作っていた資料を流用した」

「それでは次の講演もきっと引き受けて下さいますね」

私は機会があればこの青年の飲み水にシアン化合物をどうにか混入しようと決心した。きっと少しは平和になるだろう。

一般的な特許事務所でも可能なシアン化合物の合成、精製方法はあとで文献を漁るとして、私は今回の講演の効果について考え始めた。

私のありがたい講義が大学の先生方の心に響くとは到底思えない。私だって研究者として仕事をしていた時には自分の研究に関わること以外にはほとほと興味がなかった。大学の教員などその最たるものではないだろうか。

私は今回の講演はほとんど遡及効果がないだろうと結論を出しつつあった。

次回の講義は断ろう。もし青年がシアン化合物の歯牙にかからなかったとしても。


「それにしても先生。なぜ弁理士を選んだんですか」

「独立性、社会的地位。私が独立的に研究資金を手に入れるのに必要な要素を備えた資格だと思ったからだ。」

「でも先生。それはおかしな話ですね。だって今先生は研究なんてしていないじゃないですか。」

私は少しだけ呼吸を乱した。

痛いところをついてくる。

私は確かにこの青年に胃酸と反応することでアーモンド臭を発する薬物を飲ませようとしているが、一方で彼の能力の高さは認めざるを得ないとも感じていた。

彼は論点をぼやかさない。枝葉の議論に執着しない。要点を抽出し、的確で建設的な意見を出すことができる。

「その通りだな」

「先生はもう研究には戻らないんですか。微生物の研究には」

「もどるさ」

「どうやって」


強い日照りに、不快な灰が舞う。

ずっとこのままで居続けるつもりだろうか。ずっとこんな不整合を抱えて生きていくつもりだろうか。心理学の本で読んだことがある。自分の行動のつじつま合わせは人間の強烈な本能だ。自己矛盾は圧倒的なストレスになる。


どうやってもどるつもりだろうか。自分が望んでいること、そしてそれを達成するために選んだ職業。そして手段でしかなかった職業にしがみついている現状。


 馬鹿みたいだった。


知財の仕事をしばらくしたら学問の世界に戻るつもりだった。弁理士としてずっと食べて行く気はほとんどなかった。自分の研究の資金の調達だけが目的だった。弁理士として一年間働いた。どうしても独立したかったから、無茶を承知で事務所を設立した。それから3年がたった。未だに私は、学問の世界に戻ることが出来ていない。


刻一刻と昔得た専門分野の知識も思考も洞察もするすると失っていく。それがすごく怖い。あの時の熱がどこかに行ってしまいそうで、自分が何を愛していたかを忘れそうで、ただひたすら恐ろしい。


 この街はずっと灰が降っている。きっとマーフィーの法則にも載っている。「一度灰で覆われたレンズの曇りをとることはできない。レンズを割ろうと決めたとき以外は」



―完―

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灰が降る街 早雲 @takenaka-souun

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