第370話 ナンパ王太子と二日酔い

 余、フランセット・ドゥ・ヴァロワの今朝の目覚めは、決して心地よいものではなかった。


「うう……」


 ベッドから身体を起こすなり、頭に鈍痛が走る。小さく呻きながら、余は周囲を見回した。貧相な内装の狭い部屋、実用一点張りの簡素な調度品、ガラスではなく木製の鎧戸が嵌まった窓、そして麦藁の束にシーツをかぶせただけのベッド……。

 大国・ガレア王国の王太子たる余の居室としては、あまりにもふさわしくない部屋だ。一瞬頭が混乱するが、すぐに納得する。ここは王城にある我が部屋ではない。辺境リースベンの小さな民宿……という名目で活動している、王家の諜報グループのセーフハウスだ。


「いたたた……」


 それにしても、頭が痛い。昨夜酒を飲み過ぎたのだ。従者を呼び出して、水差しを持ってくるように命じる。口の中がカラカラだった。


「はぁ……」


 汲んできたばかりの新鮮な水を受け取り、喉を鳴らして飲む。頭にかかっていたモヤが、少しだけ晴れたような心地だった。カップを従者に返しながら、余は昨夜のことを思い返す。

 昨日、余はアルベール・ブロンダンと再会した。もちろん、アルベールは余が王太子フランセットだとは気づいていない様子だったがな。これは余の所有する王家の秘宝の一つ、幻術ブローチのおかげだった。この魔法の道具は使用者の姿かたちを変化させ、別人に化けさせることができるのだ。むろん所詮は幻だが、諜報活動などでは極めて有効に機能する。

 これがあるおかげで、昨夜はなかなか愉快な想いをすることが出来た。酒を飲んで乱れるなど、久しぶりのことである。アルベールの話もなかなかに愉快だった。日頃の重圧から解放されて大騒ぎするのは、それはそれは楽しい事である……。


「いや、いや」


 余は思わず首を左右に振った。別に、余はリースベンくんだりまだわざわざ遊びに来た訳ではないのだ。楽しかった、などという感想は甚だ不適格だ。これはいけない。


「殿……若様、ポンピリオ商会のヴィオラ様が挨拶に参っておりますが……いかがいたしましょうか?」


 そこへ、従者の一人がやってきたそんな報告をしてきた。ヴィオラというのは、余をこのリースベンに招いた張本人の名である。余はため息をついて、立ち上がった。二日酔いのせいで二度寝したい気分になっていたが、そうはいかない。王太子とはいえ仕事を放棄するわけにはいかないのだ……。


「身支度に少しばかり時間がかかる。それまで菓子でも出して待ってもらえ……」


 それから、三十分後。余はすっかり余所行きの格好に着替えてヴィオラのいる応接室に向かった。客人を待たせているにしてはノンビリ身支度をしたものだが、これは意図的にやったことだ。わざと相手を待たせることで、立場の違いをハッキリさせる。まあ、貴族特有のツマラン風習さ。


「やあ、待たせたな」


 ヴィオラの対面の席に腰掛けて、余はそう笑いかけた。ポンピリオ商会のヴィオラ。そうな乗る客人は、純白の羽根を背中に生やした翼人族の少女であった。むろん、商人などといってもそれは仮の姿。その正体は星導教の重鎮の一人に数えられる最年少司教、フィオレンツァ・キルアージその人である。


「いえいえ、とんでもない。良いお茶とお菓子をありがとうございます、殿下。楽しませていただきました」


 茶菓子をチラリと見ながら、フィオレンツァは笑う。王都パレアの宗教界の頂点に座るこの女と余は、もちろん面識があった。王都に住んで居れば、この女と顔を合わせる機会も少なからずある。まあ、それがまさかこのような南の果てでまで雁首を突き合わせる羽目になるとは思ってもみなかったが……。


「ところで、殿下。夕べの首尾のほうはいかがだったでしょうか?」


「ああ、貴殿の手引きのおかげでスムーズにアルベールに面会することが出来たよ。感謝する」


 コッソリとこの地を訪れていた余がすぐにアルベールと顔を合わせることができたのは、フィオレンツァの協力のおかげだった。なにかと対立することの多い王家と星導教だったが、この件に関しては協力関係にあるのだ。


「上手く行ったようで、何よりです」


 ニッコリと笑うフィオレンツァの胡散臭い顔を見ながら、余は王太子たる自分がなぜこのような辺境にお忍びでやってくることになったのかを思い返していた。むろん、これは慰安旅行などではない。なにやら裏で策動している様子の宰相派閥を、王太子たる余自らが密かに偵察しに来たのである。

 このリースベンの属する王国南部は現在、オレアン公派閥の没落により権力の空白状態になっていた。そしてその混乱する諸侯たちをふたたびまとめ上げようとしているのが、宰相アデライド・カスタニエとノール辺境伯カステヘルミ・スオラハティに率いられた一派であった。

 この宰相派閥の中心人物の一人と目されているのが、アルベール・ブロンダンである。男の身空でありながら余人をもって替えがたい戦果を挙げ続けている彼は先日このリースベンで蛮族を相手に大規模な戦を行い、そして勝利を収めたという話だ。


「……」


 給仕から湯気の上がるカップを受け取りつつ、余は思考を進めた。蛮族との戦争……まあ、それは良い。領主貴族……それも辺境に領地を持つ者であれば、誰しも経験することである。問題は、この戦争によりアルベールが二千名あまりの蛮族兵を服属させた、という情報が諜報部から上がってきたことだ。

 二千名。これは、王家から見ても決して少ない数ではない。伯爵級の貴族でも、千人以上……つまり連隊規模の軍を編成するのはなかなかに難儀する者が多いのだ。それ以上ともなると、もはや有力貴族に数えられるレベルの戦力になる。しかもこれに加え、最新鋭の軍制・装備を整えたアルベール子飼いの部隊が数百名。所詮は田舎領主の軍、などと笑って流せるレベルはとうに超えており、警戒心を抱くなという方が無理がある。

 さらに、それだけでも大ニュースだというのに、今や我が国屈指の重鎮となった宰相・辺境伯の両名が、自らこのリースベンを訪れているのだから大事だ。反乱の兆しではないかと、王室と王軍の内部では緊張が走っていた。


「……はぁ」


 とはいえ、と余は密かにため息をつく。そのような状態でも、王室は宰相派閥を正面から諮問したり、あるいは査察をするような真似はできないのである。なにしろ、夏に反乱を起こしたオレアン公派閥は、王家最大の後ろ盾でもあったのだ。

 公爵家の影響力がすっかり低下してしまった今、宮廷の政治を牛耳っているのは宰相派閥である。その上、宰相の後ろにいる辺境伯は王軍に次ぐガレア王国第二位の軍事力を持つ一大領邦領主……。万一彼女らが王家に反旗を翻した場合、王軍がこれを鎮圧するのは著しく困難だ。現状では、宰相派閥との全面的な対決は避けざるを得ないのが正直なところだった


「それで……どうでした? アルベールさんは」


 こちらの心境を見透かした目で、フィオレンツァ司教が聞いてくる。まったく、嫌な目つきだ。しかし、この胡散臭い坊主の助力が渡りに船だったのも事実だ。公的な手段で宰相派閥を追求するのが難しい以上、非公式な手段に頼るほかない。

 アルベール・ブロンダンは、宰相派閥における要石の一人だ。個人としての兵力や権力は大したことは無いが、派閥の両輪である宰相・辺境伯両名に強い影響力を持っている。むしろ、彼こそが宰相派閥の黒幕ではないかという声すら少なくはない。

 だが……余としては、その意見には賛成しかねる部分があった。そこで身分を偽り、余自らアルベールと接触を持つことにしたのだ。彼の私的な部分に触れ、その真意を確かめようというのである。


「……さあてね。宮廷雀どもが言うところの『その色香で宰相と辺境伯の両名を篭絡し、王国の実権の奪取を狙う魔性の男』……などという風に見えなかったのは、確かだが」


 権力を欲しているような男が、マトモな供もつけずに(まあ流石に数名の護衛は潜ませていたようだが)場末の酒場でワインだか腐ったブドウの搾りかすだかわからない代物を飲んでいるはずがない。あれは野望に燃える簒奪者の目ではなく、仕事に疲れた中間管理職の目だった。

 余はまだ若輩者ではあるが、人を見る目はあるつもりだ。その余から見て、アルベール本人はそこまで危険な人間のようには思えない。むしろ、目の前にいるこの得体のしれない怪僧のほうがよほど油断のならぬ相手のような気がするのである。


「まあ、とはいえ……まだ余は、アルベールとは数えるほどしか顔を合わせたことがないのだ。見落としもそれなりにあるだろう。まだこの地に滞在できる猶予はそれなりに残っている……次に会う約束も取り付けてきたことだし、じっくり慎重に彼の本質を見極めていくことにしよう」


 昨夜の余は大変に酔っぱらっていたような気がするが、それでも別れ際にした約束は頭の中に残っている。二日後、同じ店で。そういう約束だった。そのことを思うと、何やら余の胸の中にワクワクした感情が湧いてくるから不思議だった。

 まさか身分を隠し、気の合う男と好き勝手なことをしゃべりながら飲む酒があれほどウマいとは……。いや、実際のところ酒の味は最低だったが。それでも、夜会で凡百の貴族令息にちょっかいを出しながら飲む酒よりも、遥かに心地よいものであったのは確かである。


「……そうですか、それは何よりです」


 何やら含みのある声でそう言ってから、フィオレンツァは香草茶を一口飲んだ。そして、物憂げな顔で続ける。


「それは良いのですが、一つお耳に入れておきたい情報が」


「……なんだ?」


「どうやら、アデライド宰相は……この地の蛮族、エルフと共にアルベールさんを娶る腹積もりのようです。男を共有することで、蛮族どもの反抗心を削ぐ……凡庸な手ではありますが、有効ではありますね」


「何……? それは本当か?」


「ええ、確度の高い情報です。今はまだ内々の話のようですが、そう遠くない未来に公式発表されることでしょう」


 アルベールが、蛮族と結婚する? その言葉を聞いて、余の顔から血の気が失せた。どうやら宰相は彼を己のものにするつもりらしい、という情報は耳にしていたが……よりにもよって、その夫を蛮族に差し出す気か!?

 未来の夫に対する愛情があれば、絶対にそのような真似はすまい。つまり、アデライドの奴はアルベールの事を軍隊の指揮も出来る肉棒程度にしか思っていないのではなかろうか? それは、それは……あまりにもあんまりすぎる。私の手の中で、香草茶のカップが音を立てて砕け散った。布巾を持った従者が慌てて余の身体を拭き始めるが、余は香草茶の熱さを感じる余裕すらない。


「あ、あの女……! 男を何だと思っているんだ!!」

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