第228話 縫い

 目が覚める。しかし、それは正常な目覚めだった。つまり、アラームが鳴る少し前に意識を得、布団の中から出る。


 すぐ傍でフィルが眠っている。彼は比較的よく眠る方かもしれないが、どこまでが本当なのか分からない。けれど、それは誰に対してもいえることだろう。


 制服に着替えて、階段を下り、洗面所で顔を洗って、リビングに入ったとき、異常が見られた。


 暗い部屋の中、ソファに誰かが座っていた。茫洋とした陰が空間に溶け込んでいる。


 ソファに座っているといっても、家具に想定されている座り方ではなかった。本来なら、背もたれに背を預け、膝を九十度に曲げて、足の平を地面に平行につけるようにして座るべきだが、その何者かは膝を抱えて座っていた。


 月夜が部屋の中に入ってきたのに気がついて、何者かが顔を上げる。間違いなく目が合った。


 数秒間の硬直。


 月夜はソファの前を通り過ぎ、その向こうにある硝子戸の前まで来る。シャッターを上げて、室内に光を取り入れた。


 後ろを振り返る。


 昨日の少年が、月夜を見ていた。


 とりあえず、月夜は首を傾げてみたが、相手からは何の反応もなかった。


 昨日小夜と争ったのとは別人のように、少年のレスポンスは鈍い。意図的に何も返さないのではなく、返し方を知らないのかもしれない。


「何か用事?」


 月夜は声を発する。真夏の温度に溶けるように、声の余韻がゆっくりと消えていく。彼の聴覚器官にきちんとキャッチされただろうか、と心配になる。


 少年はゆっくりとソファから立ち上がった。月夜の方へ一歩近づくと、少し背を屈めて、彼女の顔をじっと見つめた。


 見つめる瞳には、まるで生気がない。


 そう……、瞳が赤く光っていない。


 黒いべた塗りのような目が、しかし僅かに揺れて月夜の姿を捉えていた。


「喉が渇いた」少年が枯れ葉のような声で言った。「何か、飲みたい」


 月夜は、もう一度、首を傾げる。


 数秒間の硬直。


 少年が、月夜に合わせるように、同じ方向、同じ角度で、首を傾げた。


 少年の傍から離れ、月夜はキッチンに入る。ヨーグルトは飲み物に入るだろうか、と思いついたが、面白い発想とはいえそうになかった。

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