33・フェリクス主従
翌朝、リーゼルさんはそのままの姿だった。ツェルナーの服はサイズがあまりにあっていなかったので私のものを着てもらい、食事は自分の朝食時にパンを多くもらって部屋に持ち帰った。昼食は攻略対象のパン職人見習いに頼んでサンドイッチをこっそり用意してもらうことにした。彼と知り合いで助かった。
一日部屋にこもっているのは飽きるだろうと思ったけどリーゼルさんは胸元から畳んだ紙を一枚取り出して、『これをやるので』と答えたのだった。
それは昨晩話に出た、誰かと瓜二つになれる魔法の呪文だった。このような事態に備えて父親に持たされていたそうだ。ただ、彼女はこの魔法に一度も成功したことがないらしい。
危険はないと言うので、魔法のことは任せて私は仕事に出た。
できればフェリクスの様子を見に行きたいけれど、普段の私は彼の部屋方面に用がない。木崎の協力を得られれば簡単なのだけど、リーゼルさんは彼にも知られたくないと土下座までしたので、話すことができない。
どうするのが良いのかな、とため息が出る。
◇◇
ムスタファの部屋に行くと、難しい顔をした彼とヨナスさんが待ち構えていた。
「もう耳にしたか」と木崎が訊く。
ツェルナーさんのことだろう。私は直接聞いていないけど、朝食の席でひそひそ話に興じている侍女グループがあって、彼のことを話題にしている雰囲気があった。
が、とりあえずとぼけて
「何かあったの?」と尋ねる。
「ツェルナーが消えた。朝方、フェリクス担当の侍従の部屋にヤツからの手紙があってな、所用でしばらく留守にするから主を頼むと書いてあった」
「扉の隙間から差し込まれていたんだよ」とヨナスさんが補足する。
「ツェルナーの部屋にはフェリクス宛ての手紙。あいつも寝耳に水で驚いているらしい。宮本、このところツェルナーと仲が良かっただろ。何か聞いていないか」
聞いているどころか、全て知っている。木崎に嘘をつくのはイヤだけど、リーゼルさんの必死な様子も心が痛い。
何も、と簡潔な言葉で答える。
「そうか。フェリクスも知らなかったというのが引っ掛かってな」
ムスタファが言えばヨナスさんもうなずく。私もだ。誰が見ても、やはりおかしいことなのだ。
「噂でも構わない、何かツェルナーに関することを聞いたら教えろ」
「分かった」
木崎はやっぱり、懐に入れた人に対しては優しいのだ。フェリクスを案じている。
木崎がそんなヤツだなんて、となりの部署で八年も働いていたのに知らなかった。
ムスタファの髪をときながらとりとめもない話をしていると、開け放したままの扉からフェリクスが入ってきた。
「おはよう」
と言う声は心なしか元気がなく、笑みも不自然だ。断りもなくムスタファの向かいに座り、
「ツェルナーから何か聞いていないか」と前置きもなしに尋ねた。
「いや。──話は聞いている。しばらく留守にするとの置き手紙があったそうだな」
「絶対に変だ!」珍しくフェリクスが声を荒げた。「私に内密にしなければならない所用なんてあるはずがない」
「宮本」ムスタファが振り返る。「髪は後でいい。気の落ち着く飲み物を入れてくれ」
はいと返事をして櫛を置く。
「他の密偵たちも大使も何も知らないと言う」フェリクスの話が続く。「それどころか城の敷地を出た形跡がない」
ギクリ。ツェルナーさん、詰めが甘い。
「ということは、警備の者たちに気づかれないように正規の出入口以外から出たということだ」
「なるほど。もう確認し終えたのか」
「もしくは城内のどこかに隠れているのか」フェリクスが彼らしくない口調で畳み掛ける。「礼拝堂の地下を軽く見てきたが、いなかった」
「……お前、朝食はとったのか」
「食べた。フェリクス王子は従者が消えたぐらいで慌てはしないからな」
自嘲を含んだ声。リーゼルさんに聞かせたい。
ふたりの会話を聞きながら紅茶をふたつ淹れた。片方だけブランデーの染み込んだ角砂糖を入れてある。私なりの罪滅ぼしというには、前世で聞きかじった知識なだけだしフェリクスの好みかは分からないけど。
紅茶をふたりの王子に出して、ムスタファのそばに控える。
「ありがとう、マリエット」と言うフェリクスはやはりいつもより覇気がない。
それでも紅茶を口に含むと表情が緩んだ。
「これは良い香りだ」
「俺のとは違うのか」ムスタファが振り返る。
「うん。ブランデーがあったら、少しだけもらった」
「俺もそれ」
「甘いよ?」
「いいから」
ふふっとフェリクスが笑う。
「マリエット。焼きもちだよ。私だけ君から特別なお茶をもらったから」
それから彼の表情が崩れ、深いため息が続いた。
ムスタファと私は顔を見合わせた。
「手紙はツェルナーの自筆で間違いないのか」
「ああ。確かだ」
「ならば事件性は低いだろう」
フェリクスは無言でうなずく。
「そうだ、ツェルナーの部屋に鏡はないのか。魔法で過去が見られるだろう」
それがあったか。
だけどフェリクスは首を横に振った。
「鏡はあったがカバーが掛かっていた。使う時だけ外していたようだ。何も映っていなかった」
なるほど。リーゼルさんは普段から鏡を警戒していたのかもしれない。
ふたりの王子はツェルナーさんについての会話を続け、私は髪の手入れを再開した。
フェリクスは従者が何か良くないことに巻き込まれて姿を消したのではないかと考えているようだ。いつもの軽口はまったく出ず、深く心配しているのがよく分かった。
主にこんな思いをさせるのはリーゼルさんも望んではいないだろうに。だけど彼女が本当にフェリクスを好きならば、私にあれこれ言われるのはイヤかもしれない。いつでも私に優しくしてくれていたから、私を嫌ってはいないだろうけど今の彼女は冷静ではなさそうだ。
本当にどうしたものか──。ツェルナーさんを心配しているフェリクスに、胸が痛む。
◇◇
リーゼルさんが私の元へ来て三度目の晩。私がツェルナーさんを匿っていることはまだ知られていない。掃除のメイドなどが来るころには彼女はタンスの中に隠れてやり過ごしているらしい。
食事は、パン焼き職人見習いに半分だけ本当のことを話して協力してもらっている。私の部屋に女性を匿っている、ツェルナーさんではない、と。実際、昨日の晩にこっそり会ってもらった。
だから彼女の隠遁生活はうまくいっているのだけど、魔法での変身は成功していないし、実家からの連絡もない。何よりフェリクスが目に見えて参っている。
木崎の話だとフェリクスは人前では完璧に普段の彼を演じているのだそうだ。だけどムスタファの部屋に来るとその顔からは軽薄な笑みが消え、目は不安そうにどんよりと曇る。
ふた晩続けて飲みにも来て、それはツェルナーさん不在の不安から逃れるためのように見えた。
だから──。
目の前で、こちらも不安な表情で寝支度をしているリーゼルさんを見る。もうベッドに入る時間だけれど私は椅子に座り
「リーゼルさん」と呼び掛けた。
振り返った彼女は私を見て、向かいに座った。察しの良い人だから話があると分かったのだろう。
「いつまでもお邪魔していてすみません。明日も何も変化がなければ、夜に出て行きます」
「どこへ?」
当てがないから私の元に来たというのに。
「衣服や装身具を質にいれれば多少のお金にはなります。城下の安宿を借りて、フリーの魔術師を探します」
「本当にそれが最善策だと?」
リーゼルさんは目を伏せた。
「フェリクス殿下がお気の毒で見ていられません」
「……殿下にも申し訳ないとは思っています。でも私はこの先もずっと、殿下にお仕えしたいのです。そのためにはこの姿では」
リーゼルさんは唇を噛んでいるようだ。
「ごめんなさい、私にはあなたのお考えもお気持ちも分かりません。だけど変身魔法を使えるレベルのフリーの魔術師を短期間で見つけるなんて、難しいと思うのです。はっきり言えば現実的ではありません。あなたがそれを分かっていないとも思えません」
リーゼルさんはますます俯く。
「……ツェルナーは男です。殿下にとって範疇外です」
何の『範疇外』なのかと訊くほど野暮じゃない。
「だからこそ信頼を得られたのだと思いますし、私も……最初から土俵に上がっていないのだからと平静を保てられたのです。女でいては崩れてしまいます」
そこで口を閉じた彼女はしばらくしてから顔を上げた。
「これでは何のことか分かりませんよね」
「分かりますよ」
「そうですか。あなたが鈍いのは自分のことだけなのですね」
そんなことはないと反論しようとしたけど、リーゼルさんに微かな笑みが浮かんでいたのでやめにした。
「私はマリエットが好きです」
「ありがとうございます」
「だけど妬ましい気持ちもあります。私が女でいたら、あなたに醜い態度をとってしまうかもしれませんし、殿下の従者に相応しくない人間となるでしょう。だからこの姿で殿下にはお会いしたくないのです」
我が儘でごめんなさい、と彼女は頭を下げた。
◇◇
ツェルナー不在三日目の朝。
リーゼルさんの考えは変わらないようだ。ということは今日中に何とかしなければならない。どうやって?
ムスタファの髪をときながら、木崎に打ち明けて相談するかと考える。だとしてもどこまで話すか。他人の秘密だ。
それよりフェリクスに直接、暴露してしまうか。
どちらにしろ、気は進まない。リーゼルさんが納得する方法を選びたい。それには私が彼女を説得するしかないのだろうけど、どうすればいいのか思い付かない。
この三日、ずっと堂々巡りだ。
と、今朝もフェリクスがやって来た。目の下のくまがひどい。眠れていないらしい。
「マリエット。この前の紅茶を淹れてくれないか」
ムスタファが振り返えり、それを先にと言うので櫛を置いた。
ツェルナーさんがいなくなってたったの二日でこの憔悴ぶりか。三年前に新しい従者だと引き合わされた日以来、一日も顔を見なかった日はないという。休日でも必ず主に朝の挨拶に来るそうだ。だからこんな形でいなくなるのはおかしいと、フェリクスは心配でならないらしい。
いつもならお茶を待つ間も喋っているフェリクスが無言だ。ムスタファもあえて話しかけずに、彼が口を開くのを待っている。
ブランデーの染み込んだ角砂糖入り紅茶をふたつ淹れ、それぞれの王子の前に出す。口に運んだ軽薄王子はひとくち口に含むと、
「ああ、落ち着く」と吐息した。「ツェルナーがいなくなってひとつ学んだ。今まで良い茶葉だから美味しいと思っていたのが、ツェルナーの淹れ方が良かったからだったのだ」
「そうか」とムスタファ。
フェリクスはカップを置いて、向かいの王子を見た。
「ツェルナー不在が本国に知られてしまってな。あちらでは職務放棄だと問題になっている」
「たったの二日だぞ」
うなずくフェリクス。
これは髪の手入れをしながらの話ではない気がする。下がって隅に控える。と、
「いいから宮本、こっち」
と木崎は自分のとなりを示した。
私が座るとフェリクスが話を続けた。
「実はツェルナーは本国に毎晩定時連絡をいれている」
「調査の進捗か?」
「それと私の仕事への態度だ。ツェルナーは、跳ねっ返り王子の監視役でもある」
「お前、信用ないのだな」
フェリクスは笑みを浮かべた。
「何しろ私はひねくれ者だ。──それでだ。この二日はツェルナーは仕事の手が離せないとの理由で私が連絡をしていたのだが、不信に思った本国が大使に連絡を取ってしまい、知られてしまった。最初に私の指示で城を出ていると言えば良かったのだが、私としたことが気が動転していたのだな。ツェルナーからの手紙には、うまく誤魔化してほしいと書かれていたのだが」
「定時連絡を誤魔化す、か。ならば長く留守にするつもりはないということだ」
「そうだとよいのだが。今回のことはあまりにおかしい。ツェルナーなら、私には理由を説明してくれるはずだ。なのにもう三日目。本国は怒っている。猶予はない」
フェリクスらしくない切羽詰まった口調だ。
「事件性有りにして、近衛を動かす。俺ではダメだろうがバルナバスが国王に頼めば大丈夫だろう」
「ありがたいが駄目だ。こちらの国に借りを作ることになる。本国がツェルナーに罰を与えるかもしれない」
「それなら俺たちで秘密裏にだな」ムスタファは即答した。
先日も思ったけど、やはり懐に入れた相手には優しいらしい。
「とは言えお前の密偵仲間が分からないことを俺たちで短期解決ができるかどうか。何かしら糸口になることはないのか」
フェリクスは首を横に振った。
「バルナバスの従者たちにも訊いてみたのだが答えは判を押したように同じだった。『会話はするが親しくない。ツェルナーの個人的なことは何も知らない』」ため息をつくフェリクス。「任務のことがなくとも、彼は実家の事情があるから誰とも深い関係を結んでいないのだろう。実はツェルナーは本名だが、姓は母方のものを名乗らせている」
「そういえば、ツェルナーとしか知らないな」とムスタファ。
ふたりの会話を聞きながら考える。リーゼルさんに不在が本国に知られていると伝えたら、気を変えてくれるだろうか。フェリクスの従者でいたいのだ。クビになるのは困るだろう。
「実家の事情が絡んでいる可能性は?」とムスタファが尋ねる。
「ないはずだ。彼自身は関係がない」
そう答えたフェリクスは何度目になるか分からないため息を深くついた。
「……どこにもトラブルの影がない。こんな形で留守にする理由もみつからない。私に説明なしだなんておかしい」
「まだ二日だ。見逃していることがあるのだろ」
フェリクスは口をつぐみ目を伏せた。膝上で手を組んだが異様に力が込められているようで、指が赤くなっている。何か言いたいことがあるけど、口にできないといった風情だ。こんな姿は初めて見る。
ムスタファと私は視線を交わし、彼が口を開くのを待つ。
「あと考えられるのは……」長い沈黙のあとにようやく声を出したフェリクスの口の端がワナワナと震えている。「私に愛想を尽かして逃げ出した」
そう言う声も震えていた。
「どうしてそうなる。ツェ、」
「私の従者は皆そうだった。『こんな自由すぎる王子は手に余る』と言って留学に同行するぐらいなら退職すると去って行った。誰ひとり、残らなかった」
フェリクスが表情を崩している。木崎が間髪入れずに
「根性がない奴らだ」と言った。「だがツェルナーは違うだろ」
「……そう思っていた。だがそもそも、彼は辞めることのできない状況だ。本当はずっと嫌だったのかもしれない」
ムスタファが呆れたように吐息する。
「気持ち悪いほどの察しの良さはどうした。誰がどう見ても、ツェルナーにそんな素振りはないぞ」
「……そうとでも考えなければ、私に何も告げずに姿を消した説明がつかない」
「理由を教えてくれなかったからといって、お前を信用していない訳ではないだろうが。お前、冷静でないにもほどがあるぞ」
「そうだろうか」弱々しい声のフェリクスは目に涙が浮かんでいた。「自分でも、ツェルナーに信頼されていなかったことが、こんなに堪えるとは思わなかった」
「だから事情があるのだろう。お前こそツェルナーを信頼していないのか」
フェリクスの涙がこぼれ落ちる寸前になっている。
「あの」
口を挟むとムスタファが私を見た。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」
「このタイミングでかよ。腹でも壊したか。しっかり出してこい」
ムスタファが美貌に合わないセリフを吐いて、手をしっしと振った。
立ち上がりフェリクスに一礼してからそそくさと部屋を出る。
足早に廊下を進みとなりの自室に入った。
中途半端な時間に戻ってきた私にリーゼルさんが不思議そうな顔をしている。
「フェリクス殿下が泣いてます」
「え?」
「ツェルナーが不在にする理由を教えてくれないのは信頼されていないからだ、でなければ自分に愛想を尽かしたのだと、ドン引きするくらいマイナス思考に陥って、目の下のくまは酷いし、見ていられません」
早口で捲し立てるとリーゼルさんの顔が強ばった。
「あの人、本当は繊細なのですね。あなたの不在が不安でならないみたい。何かトラブルがあったのではとか、自分が原因ではと悪いことばかりを考えてしまってろくに眠れていないようです」
言葉を切ってリーゼルさんを見る。部屋の隅に立っている彼女の手には呪文の紙。目を大きく見開いて固まっている。
「フェリクス殿下、泣いていますよ」
私はもう一度、静かに言った。
リーゼルさんが顔をくしゃりとする。こちらも泣きそうだ。彼女は震える手つきで紙を畳みポケットにしまった。
私がリーゼルさんと共にムスタファの部屋に戻るとふたりの王子は困惑の表情になった。フェリクスは私の留守の間に更に泣いたのか、目が赤い。
「彼女は?」とムスタファが私に尋ねる。
私が
「彼女自身から」
と答えると、リーゼルさんは膝を折り
「リーゼル・アイヒホルンと申します」と名乗った。
フェリクスが、え、と小さく声を上げた。
主に向かい彼女は両膝を床につき、深く頭を下げる。
「七年前、司教と出奔したのはツェルナーです。同性同士だったことを隠すために、私が魔法で兄になりすましておりました」
え、とまたフェリクス。
「その魔法が突然解けてしまい、ツェルナーに戻ることもできません。そのため一旦隠れることにしたのです」
リーゼルさんは更に頭を下げる。
「王家を騙していたこと、私が浅薄な行動をとったこと、大変申し訳ございません」
フェリクスは身動ぎもせずに黙ってリーゼルさんの頭を見ている。混乱しているのかもしれない。
しばらくたってから、
「君が私に仕えていたツェルナーなのか」
と尋ねた。
「はい」
「信じられん」
「三日前、ふたりで礼拝堂に入ったときパウリーネ妃殿下のお猫様がついて来てしまいました。地下への入り口を開く前に追い出そうとして、私はくしゃみが止まらなくなりました」
「……そうだったな。だが……」
フェリクスは戸惑っている。
「初めてお会いした日、あなたは周りの人たちがいなくなった後、私に『責められるべきは道理を通さなかった当人たちだけであって、兄たるお前に罪はない。堂々としていろ。世間にも私にも』と仰いました」
「……そうだったかな」呟いたフェリクスが片手を顔半分を覆うかのようにした。「……ツェルナー、なのか」
「はい」
また長い沈黙。フェリクスは何を考えているのか、私の元からは手で顔が隠されているので分からない。リーゼルさんの頭は床すれすれになっている。
「……ツェルナー」
ようやく口を開いたフェリクスは、また声が震えていた。
「はい」
「どうして私の元に来なかった。私が怒ると思ったのか。信頼できなかったのか。なぜマリエットで、私ではなかったのだ」
苦しげな声。勢いよくリーゼルさんが頭を上げる。
「殿下のことは信頼しております! お伝えできなかったのは、あなたにこの先もお仕えしたかったからです!」
ひょいとムスタファが立ち上がった。
「宮本」
「え? なに?」
「散歩に行くぞ」
ずんずんとやって来たムスタファは私の手を取り扉に向かう。部屋を出る前に振り返り、
「フェリクス。留守番を頼む」
と言い、扉をきっちりと閉めた。
「ほら、アホ宮本、行くぞ」
「本当に散歩に行くの?」
「やることないしな」
ムスタファのこの後の予定を考える。と、手を引っ張られた。短気な王子は既に廊下を歩きだしている。
というか、手はもういいんじゃないのかな。
「ツェルナーを部屋に匿っていたのか」
「そう。もしかして私が彼女に繋がっていることに気づいていたの? それから手」
お手洗いと言ったときに、ゆっくりしてこいと木崎は言った。
「当たり前。ツェルナーの話題になると口数が減るし、心配していないようだった。逆にフェリクスが来ると胃が痛そうだった」
「……私、そんなに分かりやすいかな。態度でバレないよう気をつけていたつもりだったんだけど」
「俺の目をなめんな。まさか隣に隠れているとは思わなかったが」
「黙っていてごめん。木崎にも話さないでほしいって土下座されて。あんまり悲壮な様子だったから、彼女が納得ゆくようにしたかったの」
「宮本だしな」
「どういう意味?」
「俺だったら即刻フェリクスに引き渡す」
「うん。あの、手」
前から来る侍女が繋がれた手を凝視している。
「知るか」
知るか? 何だそれは。どういう意味だ。
「罰だよ。溺愛されとけ」
「えええ!」
木崎の言葉が完全に侍女に聞こえた。格好の噂話ネタを見つけた、という顔をしている。
すれ違うときムスタファは彼女をスルーしたけど、私はぶんぶんと顔を横に振った。
「木崎」小声で王子に呼び掛ける。「ゲームの影響を受けてるよ」
「フェリクスは当て馬キャラを降りるだろうな」
掛けた言葉とまったく関係ないセリフが帰ってきた。だけどそれには同意する。
「そうだね。彼にとっての一番が誰か、明らかになったもの。良かった」
リーゼルさんの実家のこととか問題は山積みだけど、それはそれ。
「それとゲームの影響じゃねえぞ。罰だって言っただろ。俺を騙していたんだ、覚悟しろ」
「別の罰は」
「なら夜伽」
「おかしいよね!」
「ツェルナーが女になっているなんて知らなかった」とムスタファ。「お前が他の男とこそこそ通じあっている。ゲームならきっと、ムスタファの嫉妬が大爆発だぞ」
確かにそう……なのかな?
「お前にその気はないのは分かっていても、面白くはない。だから黙って罰を受けろ、アホ女」
「……何かおかしくない?」
「いいから反省しろ」
「やっぱりゲームの影響を受けているよ。ごちゃ混ぜになっている」
「つべこべ言うなら今ここでキスするぞ」
ぎょっとして廊下の前後を見渡す。近くに人はいない。セーフ!
ムスタファはしれっとした顔で、何も気にしていない。
元々、人をからかうような事をよく口にするヤツだけど、こんな誰が聞いているとも分からない場所で言うことはなかった。
そんなに怒っているのだろうか。黙っていたのは悪かったけど、怒りポイントが微妙にずれているような言い分だ。ゲームの影響に抗えなくなっているのだろうか。まだルート選択してから二週間ほどしか経っていない。あんなにはっきり啖呵を切ったのに。
『宮本を溺愛なんて絶対にしない』と言ったのは木崎だ。
しっかりしてくれないと、困る。
◇◇
リーゼルさんの、兄にまつわる事情を説明しながらムスタファと私は近衛の広場に来た。散歩前にシールド魔法を試してみることになったのだ。
このところ上手くいっていなかったのだけどムスタファの勧めで昨日、ヴォイトにシールド魔法の理論を教えてもらった。おかげで魔法への理解が深まった。今までは実践的なアドバイスばかりだったのだ。さすが上級魔術師は観点が違う。
それで指導の時間はまだだけど、試してみようということになった。
万が一の危険を避けるためムスタファには遠くに離れてもらい、術を始める。呪文を唱えながら宙に魔方陣を描く。
成功したい。
自分で自分を守れるようになりたい。
木崎に余計な心配をかけたくない。
雑念だらけで呪文を唱え終えたとき、魔方陣が輝いて爆散した。私の周りに小さな光のドームが現れる。
成功だ!
やった。ヴォイトに教わった理論が良かったのかもしれない。
数秒で光は消えた。
それでも成功は成功だ。
振り返り、木崎と叫ぼうとして慌てて口をつぐんだ。いつの間に来たのか、ムスタファの後ろにカールハインツ、オイゲンさん、それから数人の近衛兵がいたのだ。
どよめいている彼らをよそに、ムスタファがやって来る。私も駆け寄ると侍女らしく膝を折って
「成功しました」
と報告をする。
「凄いな。短時間とはいえ、しっかり張れていた。前の術より派手だし」
「あちらは見えないタイプでしたから」
侍女らしく答える。
「彼女ならばもっと長い時間可能なはずです」歩み寄ってきたオイゲンさんが恭しげな態度でムスタファに向かって言う。「努力家ですから、きっとすぐにできるでしょう」
うむと鷹揚にうなずく王子。
「よく頑張ったな」カールハインツがそう言って、私の頭にぽんと手を置いた。
「カール!」
慌てた声でオイゲンさんが彼の背を叩く。
「何だ?」と言ったカールハインツは副官の顔を見てから小さく「あ」と声を上げて手を下ろした。
「失礼致しました」
と、彼が謝る先はムスタファだ。
だから勘違いだと声を大にして言いたい。
だけどムスタファは不機嫌そうな顔で黙ってうなずいた。何なんだ、その顔は。まだ罰の最中なのか。
「行くぞ」と王子は私の手を握り、歩きだす。
近衛たちの目の前で。
今日の木崎はすごく変だ。
握られた手が熱い。
人気がなくなったところで
「木崎!」
と声を掛ける。と、ムスタファは足を止めて息を吐いた。
「あいつ、ろくでもねえな」
「何が」
「あいつは『ムスタファ殿下のマリエット』と思っているんだろ」
「うん。困ったことに」
「それなのに俺の目の前でお前の頭を撫でたんだぞ。お前並にたちが悪い」
「……そうか」
「そうかじゃねえよ、アホ喪女」
「仕方ないよ。堅物だから疎いの」
「で、王族の反感を買うのか? エリートのすることじゃねえな」
「何でそんなに苛ついているの? 私が魔法をしている間に何かあった?」
ムスタファはむっとした顔になり、別にと答えた。
それからごくごく小さな声で、くそっと、とても月の王とは思えない言葉を吐き捨てた。
繋いでいないほうの手が伸びてきて、私の頭をぐしゃぐしゃとかきまわす。
「ヒュッポネンの魔法理論を聞いてすぐに成功。お前、凄いよ。魔法だけは一目置いてやる」
「ありがと」
木崎に褒められるなんてむず痒いし嬉しい。でも木崎は何だか変で落ちない。
「じゃ、庭の散策に行くか。部屋に戻るにはまだ早いだろうからな」
そう言ったムスタファは握っていた私の手を離した。
罰は終わったらしい。
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