第25話 うなじの魔力

 アクアビーズで遊ぶ事数時間、気付けばお昼の時間帯となっていた。今朝は朝食を取っていないので、さすがに俺も腹が減ってきている。


「そろそろ昼だけど、飯どうする? 何か出前でも──」

「ナポリタン!」


 取らないか、と訊く前に、珠理が元気よく答えた。

 本当に彼女はナポリタンが好きな様だ。ただ、せっかく弥織が来てくれているのにナポリタンは、ちょっと無いのではないだろうか。しかも、今週既に一度食べている。

 俺としては、出前寿司とまではいかなくても、もうちょっと良さげなものをビーバーイーツで頼んでも良いと思っていたのだけれど。


「弥織は何か食べたいものとかないか?」

「私は珠理ちゃんの食べたいものでいいよ」


 弥織は弥織でこれである。

 ちょっとこの〝おかーさん〟は娘に甘過ぎるのが問題だ。いや、俺も十分甘やかしているのだけれど。


「えー……マジか。じゃあ、ナポリタンにするか」

「うん! れとると~!」


 この時珠理が放った言葉に、「レトルト?」とぴくりと弥織が反応する。

 そして、表情がみるみるうちに険しいものになっていった。


「まさか依紗樹くん、こんな小さな子にレトルトのご飯食べさせてるの……?」


 じろっと〝おかーさん〟が俺を見る。

 さっきまでの聖母の様な笑顔はどこにいったのか、めちゃくちゃ目が怖い。


「ま、待て! 極力自炊はしてるって! でも、俺あんま料理得意じゃないし、ナポリタンに関しては自炊したやつだと不味いって言って食べないんだ!」


 否定すべきところだけは否定させて欲しい。料理が苦手なりに努力はしているのだ。


「おとーさんのナポリタンはやー」


 珠理の拒絶の声がぐさりと胸に突き刺さる。

 きっと世の中の〝おとーさん〟はこうして娘に傷つけられて生きているのだなと思うと、同情を隠せない。

 しかも、普段我儘を言わない子のはっきりとした拒絶なので、どれだけ不味いんだと余計にショックを受けるのだった。いや、自分で食べても美味しくないのはわかっているのだけれども。

 弥織はそんな俺達の様子を見て小さく溜め息を吐くと、鞄からスマホと財布だけ取り出して立ち上がった。


「一番近いスーパーって、あのバス停近くのところ?」

「あそこより玄関出て右に曲がって坂上がったところにあるコミットのが近いけど……どうした?」

「スーパーで材料買ってくるから、珠理ちゃんとちょっと待ってて」


 私が作るよ、と弥織は困った様に笑って付け足した。

 どうやら彼女はスーパーで材料を買ってきて、自分でナポリタンを作るつもりらしい。


「え、いや、待てって。客人にそんな事させられるわけないだろ。それなら俺が買ってくるよ」


 おもむろにその場から出て行こうとする彼女を慌てて止める。

 さすがに客人に買い物させた上に料理まで作らせるわけにはいかない。


「ううん、私が行ってくるよ。近いみたいだし」


 スマホでスーパー・コミットの場所を調べて彼女が言う。

 確かにスーパーまでは徒歩数分だが、そういう問題ではないのだ。珠理の相手をしてもらっているのに、御遣いまでさせるわけにはいかない。


「いや、材料なら俺が買ってくれば済む話だろ? 遠慮しなくていいって」

「遠慮っていうか……レトルトのナポリタンに負ける人の目を信用できないの」


 弥織のじとっとした視線が俺に突き刺さり、その視線と痛烈な言葉によって、俺の繊細な心から鮮血が噴き出した。

 お前の材料を見る目が信用できない、という事だ。悔しいが、それは一理ある。野菜などいつもテキトーに買っているので良し悪しなどさっぱりわからない。


「ねえ、珠理ちゃん。おかーさんのナポリタン、食べてみたい?」

「え、おかーさんの⁉ 食べたい!」


 弥織の問いに、元気よく答える珠理。

 彼女が得意げに俺を見たのは言うまでもない。


「ふ、ふん。最近のレトルトは結構美味いんだぜ? 舐めてると足元掬われて、『レトルトの方がいい』って言われて俺と同じく泣く羽目になるぞ」

「レトルトの味を否定するつもりはないけど、子供に食べさせたくないの」


 添加物とかたくさん入ってるんだから、と弥織がむすっとして言う。

 完全にど正論で、ぐうの音も出ない俺である。

 ただ、そんな事は言われるまでもない。わかっているからこそ自炊しているのだ。だがしかし、普段文句を言わない妹から不味いと言われたら、レトルトに変えるしかないではないか。俺とて苦渋の選択なのである。

 結局そのまま弥織はスーパーに行ってしまい、俺は珠理と共に彼女の帰りを待った。

 待つ事二〇分、学校一の美少女はその容姿に似つかわしくない大きな買い物袋を二つぶら下げて帰ってきた。

 慌てて俺が荷物を持ってやると、「ありがとう」と彼女がほっとした笑みを浮かべる。額に少し汗をかいているところを見ると、かなり急いでくれた様だ。


「台所、借りていい?」

「そりゃ、構わないけど……調味料とかは」

「必要なものは全部まとめて買ってきちゃったから、大丈夫だよ。あ、エプロンも借りるね」


 弥織は言いながら壁に掛かっているエプロン──俺が普段使っているものだ──を手に取り身に着けると、手首につけていたシュシュでその長い髪を軽く結った。


 ──う、わ……。


 ふぁさっと髪が一瞬舞うと共に、シャンプーの良い匂いが鼻腔を擽る。それと同時に、これまで見た事がなかった伊宮弥織のうなじが顕わになった。

 白くて色っぽくて、何とも言えない感動がそこにあった。


 ──こ、このコンビネーションは……し、刺激が強すぎる。


 頭がくらりとなって、思わず後ずさる。

 何というものを見せるのだ。ただ髪を結っただけなのに、十八禁並みの刺激が襲ってきた。恐るべし、伊宮弥織。


「……どうしたの?」


 その美しいうなじを凝視していたら、弥織が振り向いて、不思議そうに首を傾げた。


「な、なんでもありません……」


 自分の劣情を恥じながら、俺はうずくまった。あのうなじに顔を埋めたいだなんて、断じて思っていない。思っているはずがないのだ。

 彼女は頭に疑問符を浮かべているが、頼むからそれ以上詮索しないで欲しい。下手をすれば『お母さんになってくれ』発言より引かれる。


「おかーさんのナポリタン、たのしみ!」


 珠理もわくわくした様子で台所までくる。

 俺が料理を作っている時は来ないのに、なんだこの差は。


「美味しいナポリタン作るから、待っててね」


 弥織が聖母の微笑みを浮かべながら、珠理の頭を撫でていた。

 こうして学校一の美少女兼〝おかーさん〟の料理が始まるのだった。

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