閑話 駆け引きのようななにか
玄関を出て、葵は新参者な先輩を連れて歩き出す。
門扉を出てすぐに左に折れる。バス停に行くには、藤代家の前を通るのが早い。その際、彼女はちらりと家の様子を確認した。
藤代姉妹の部屋はどちらも通りに面した窓がある。レースのカーテンはもれなく、しっかりかかっていた。
「あのね、実は藤代さんに謝りたいことがあるんだ」
「……えと、なんのことですか」
話しかけられて、葵は意識を見送り相手の方に戻した。いきなりということもあって、二重にドキドキしていた。
いや、三重かもしれない。その横顔が綺麗だと、同性ながら彼女は思ってしまった。
『アイドルしてたらしいよ』
尊敬する幼馴染の学年に、転校生がやってきたという噂は葵も知っていた。そのとき、ついて回った話がこれだ。
男子はかなり色めき立っていた。初めての本格的なテストも終わり、学校生活にも慣れたころ。余裕が出てくれば当然、我を出し始める。
楓もまた、その対象になることはあった。
ともかく、その話はさっきまですっかり忘れていた。お隣りさんのリビングで、その姿を見るまでは。そのときはまだ、半信半疑だったが。
「2週間くらい前かな。放課後、1階の廊下で仙堂君とお話ししてたでしょ」
またしても、葵の心臓が跳ねた。
よく覚えていた。日付までしっかりと。彼女にとって、これから大切にしていきたい出来事だ。
ひめのは依然として、前を向いたまま。
それがこの、大人しい1年生の不安を煽る。
「そのときにね、ちょっとだけ聞いちゃった。たぶん絶対に聞いちゃいけない話を」
「……そうなんですか」
きっと不可抗力だったんだろうと、容易く想像がつく。
だから、葵は隣りを歩く先輩に対して思うところはなかった。
彼女はただひたすらに、自分の迂闊さを呪っていた。やはり、決してあのときおにいちゃんに話しかけるべきではなかった――
「あの、それって仙堂先輩は」
「知ってるよ。ちょうど昨日謝ったところなんだ。まああの人は、何とも思わなかったみたいだけど」
葵の脳裏に、ふと仙堂家のリビングで見た光景が過る。
2人はいい雰囲気に見えた。超至近距離で内緒話なんかして。
でも、なんともないと言っていた。彼女もそれを信じることにした。それはたぶん、自分の想いのせいでバイアスがかかっていただけだ、と。
けれど、考えてみると怪しい。
欠席したクラスメイトにプリントを届けるために、わざわざこんな遠いところまで来るだろうか。しかも、転校してきたばかりの人間が。
――考え過ぎだ。これ以上は、他でもないおにいちゃんを疑うことになる。あの人が自分に嘘をつくはずがない。
そう、葵は無理やりに結論付けた。
あの人――たった今、ひめのは凱のことをそう呼んだ。
それが呼び水になった。正確に言うなら、そこに込められた微妙な感情が。嫌なものではなく、むしろ。
つい最近、葵もその言葉を散々使ったばかり。
悪意を持って、敵意を込めて、怒りを発散するように。
同じ言葉なのに、こうも違う。
目の前の相手のそれは、どこか温かみがあって、親密な感じがした。
少なくとも、この引っ込み思案な少女はそう受け取った。
「やっぱり不愉快だよね。本当にごめんなさい」
「……い、いえ、いいんです。あたしも気にしてませんから。仙――カイおにいちゃんとおんなじで」
触発され、葵はあえて呼び方を戻す。けれど、いつもとは違ってどこかぎこちなくなってしまっていた。
その微妙な照れや緊張を感じ取ったらしく、ひめのが少し頬を緩める。どちらにせよ、彼女にとっては微笑ましいものだった。
「そう言ってもらえると、ちょっとは罪悪感がなくなる、かな。ありがとうね」
「そもそも、わたしが悪いんです。学校で、あんな話をするべきじゃなかった。本当に迂闊……」
「そんなに自分を責めることないと思うよ。あたしがたまたま通りがかっただけで、本当に人通りはなかったわけだし」
「いいんです。やっぱり、あの人の――姉の話を持ち出したのは間違いでしたから」
「……え、あね?」
突然、ひめのが素っ頓狂な声を上げた。見る見るうちに、その綺麗な顔に動揺が広がっていく。
「まって、まって! 仙堂と付き合ってたの、あなたのお姉さんなの!?」
「……あれ、聞いて……ない?」
瞬間、自らの早とちり失言に気づいて、葵の顔が真っ赤に染まる。
同時に、ゆっくりと疑問が膨らんでいく。だとすれば、この人はどこまで知っているのか。憧れのお兄さんは、こんな重大なことをなぜ黙っていたのか。
この気の早い少女に、これ以上言葉を紡ぐ勇気はなかった。
演技上手な女先輩も同様。
重たい沈黙の中、2人は足を進めることにだけ集中している。幸いなことに、目的のバス停までは残り僅か。
「――あのね、葵ちゃんって呼んでもいい?」
「……はい?」
バスを待つ時間が来て、久しぶりにひめのが口を開く。
いきなり過ぎてピンと来なかった葵は、ぎこちなく相手の方に視線を向けた。
「やっぱりダメかな。ちょっと馴れ馴れしすぎるよね、今日あったばかりなのに」
「い、いえ、それはいいんですけど。でも、どうしていきなり」
「仲良くなりたいって思ったんだ。さっきの話を聞いて、もっと。そのあたしも同じ立場……ううん、似た経験があるから」
「それってどういう――」
「あ、バス来ちゃった。今度必ず話すね!」
話を無理やり打ち切って、謎多き転校生は強引にバスに乗り込んだ。
残された葵は、バスが走り去っていくのを呆然と見送る。
……なにはともあれ手ごわいライバルが現れた。そう思って、小さくため息をつくのだった。
◆
大役を果たした葵は、気疲れと共に帰宅した。
家に入るなり、その顔が一気にげんなりしたものに変わる。
「凱のとこ、行ってたんだね」
タイミングよく、彼女の最も嫌いな人物が下りてきた。へらへらとした、軽薄極まりない笑みを浮かべて。
絶対にわざとだ。決めつけてかかり、妹は不快感をあらわにする。
「……だったらなに。アナタには関係ない」
「一緒にいたの誰。あおちゃんの友達?」
「見てたの? ほんっと気持ち悪い……」
吐き捨てるように、葵は言葉をぶつけた。
あの日以来、姉妹のコミュニケーションはすっかり変わった。
前と同じように――前にも増して媚びるようにする姉と、それを頑なに拒む妹。
両者の溝は埋まるばかりか、どんどん広がっていく。
本来なら、これで会話も終わり。2人はそれぞれの生活に戻っていくはずなのだが。
「……た、たまたま、ね。ええと、誰だったの? 凱の家から出てきたの見えたんだけど」
「しつこいな。――先輩のクラスの人。わざわざプリント届けに来たんだって」
「そうなんだ」
姉が少しだけ目を丸くした。少しも予想していなかったような表情。
葵には、その思考内容は想像できなかった。いや、したくもなかった。常にこの人物は自分の想像を超えていく。主に悪い方向で。
「もういいよね。わたし、疲れてるの。誰かさんとは違って、学校行くのも一苦労だから」
「……あおちゃん」
「あと、二度とおにいちゃんのこと、名前で呼ぶな」
感情を圧し殺すように言ってから、葵は相手の脇を通り抜けた。すれ違いざまに、きつい視線を浴びせて。
今日は特に、これ以上相手をしていたくはない。
部屋に戻ってすぐ、彼女は盛大に息を吐きだした。
最後の最後で、あんな疲れるイベントを経験させられることになるとは。ただでさえ、息の詰まる時間を過ごしたというのに。
疲労感は留まるところを知らない。
それでも――
葵はスマホを取り出すと、手早くメッセージを送信した。
『今帰ってきたところです。
桐川先輩、送ってきました』
『ありがとな。
見舞いに来てくれて嬉しかった』
いつも通りの素早い返信に、スマホを抱えたまま葵はベッドに飛び込んだ。
その頬は溶けてしまうと心配になるほど緩みっぱなしだった。
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