稀少6

 勝手にピンっと伸びた自分の背筋を合図に、自らの眼を大きく開き、唇に意識を集中させる。そして彼女の肩に乗せている手が震え出すその前に、もう一度だけ、上から彼女の顔全体を見据える。緊張のせいで何も覚えていませんでした、なんてオチ、あまりにも勿体無いじゃない。  


「……………………」


 恋人の顔は相変わらず張り詰めている。目尻に皺が寄るほど強く閉じた瞼に、口周りが疲れそうなアヒル口。率直に言って最高に可愛いけれど、全体的に筋肉の収縮が凄そうだ。


 私もきっと、人のことは言えない顔をしているに違いない。


 なんせこんな経験をするなんて初めてで、他人の唇の感触なんて想像もつかない。ちなみにそれでも妄想したことはある。誰のとは言うまい。しかし想像通り上手く行く気なんてのは今、微塵もしない。失敗したらどうしようという不安が後を引くように付き纏っている。そもそもどんな失敗例があるのかも詳しくは知らない。


 私にとって、これはファーストキス。


 ……そしてその必死な面貌を鑑みるに彼女もそう、なのだろか。


 私と一緒でこれが初めてなのだろうか? 

 そういった事を詮索するのはなんとなく嫌だったので私から聞いたことは無い。答えを聞くのがただ怖かったので避けていたのだ。なので結局彼女に経験があるのか無いのかは分からずじまいだが、その必死な表情に、私は内心、どこかでホッとしていて、その傍、使命感めいたものも湧いてくる。


 もし初めてだったら彼女も私と同じように、今不安に駆られているはずだ。だから、どんなに無様だっていい、失敗したって別にいい。


 私から唇を重ねる。


 首を下げて目線を彼女と同じ位置に整える。奮い立っているのかただ震えているのか、もはや定かではない身体をゆらりと前に出して、顔を少しだけ斜めにしてその唇へ向かう。


「……ぁ」

 私の吐息が自分の唇に掛かった彼女が、わずかに瞼を上にあげて声を漏らす。その声の艶に脳が溶けそうになる。いや既に溶けているのかもしれない。もう随分と長いこと無音が続いている。時間の流れもあり得ないほどゆっくりで、スロー再生のように全てが弛緩している。 


 視界には潤んで濡れる彼女の黒々とした瞳。今、私の世界にはそれだけだった。


 唇をつける直前、目でいいか、合図を取る。

「………………」

 恋人のその意思は言葉にしなくても理解できた。


 もう一度、そっと目を閉じた彼女に習い、私も自分の瞼を下ろす。合っているのかは分からないが、そうするのが正しい気がしたから。


 そしてほんのわずかに顎を上げて、自分の唇を彼女の唇まで運ぶ。


 こうして、私達は初めてキスをし









「おおおおお!!!!弁当忘れたあああっっ!!て、うおおおおおお!!チュウしてらあああああ!!!!」


「……ん?」 


 なんだ今の? 

 したのかチュウ? 

 いや感触はまだ無かったぞ。

 ていうかなに今の怒号。人ってチュウをするとあんな声が聞こえてくるのか?チュウにそんなギミックあったのか?世の恋人達ってみんなチュウすると怒鳴り声が聞こえてくるの?弁当云々言ってたような気がするけれどそれってチュウとは何か関係があるのか?あと何で視界が真っ暗なんだろうか? あっ、それは私が目を閉じているからか。


 …………目、開けたくねー。


 でも仕方がない。

 いや、だって、だって、今の声、すっごく聞き覚えがあったし。


「ねーちゃんがうちの前でチュウしてるぅ!!!!」


「死にてぇ」

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