稀少5

 横目で彼女の顔を見た途端、動きが止まる。


 あとほんの少し指を伸ばせばその背中に届いていたはずの手も、宙を掴んだまま静止する。


 このままでは呼吸まで停止してしまうのではないか、というほど早鐘を打つ鼓動。しかし頭の中では答えを求め、いつまでもグルグルと思考が回っている。


 さまよいながら回転を続ける思考はきっともうすぐ答えにたどり着くのだろう。あと一歩進めば私は自分の過ちを頭の片隅で発見する。


 彼女を抱き寄せるために用意した両腕は一旦下げて、もう一度、横目で彼女の顔を捉える。


「………………」

 やはり、私の導き出した抱擁という答えは間違っていたようだ。


 それもかなり予期せぬ方向に。


 彼女の求めるものはもっともっと遥か彼方空の上にあって、私が勇気振り絞って起こそうとした動きなんて『ソレ』に比べればもう地べた這いつくばっているというか、もはや地中の中に埋まっていると言っても過言ではないのかのかもしれない。


 私文社書店発刊恋愛常識辞典がいつの間にか悪魔的な贋作にでもすり替わっていない限り、私の推察は今度こそ当たりを指し示しているはずだ。


 なぜそんなことが言えるかって、それは答えが彼女の顔にそのまま記されているから。


 彼女の瞼は堅牢に閉じていた。


 何かに耐えるようにぎゅうっとシャッターが降りて、時折ピクリと震えている。それ自体はどこか辛そうな反応とも取れるし、何かを恐れている様子にも見える。もし彼女の反応が顔の上半分だけだったら、きっと私は、今の一連のやりとりに対する拒絶として受け取っていたのかもしれない。しかし、そうは問屋と彼女が卸さない。ついでに私も卸したくない。


 閉ざされた彼女の涼しげな瞼の下。赤いほっぺに筋の通った鼻のさらに下。いつも私の名前を優しく呼んでくれる愛らしい口元。薄い桜色の唇。


 問題はここ。この部分。


 普段口の端がちょこんと可愛らしく上がっていて、緩やかなU字を結んでいるはずの彼女の口が、今はVでもWでもなく美麗なOの形をしている。それでいて唇が無警戒にも前に押し出されているのだ。


 こう、んむーーーっという感じで。


「………………」

 吐こうとした息が半分掠れてカヒュー…という力ない音が身体から漏れ出る。


「…………こ、」これってさぁ。

「…………つ、」つまりさぁ。


 いわゆるキス待ちってやつなんじゃあないの?


「うぉ……」

 そう自覚した途端、今日一番の不整脈が私を襲った。


 身体を巡る倒れそうなほどの熱量。まるでマグマでも流し込まれたように内部が焼き尽くされる。目の前が白んで視界がぼやけ、自分の足が地面に着いているのか宙へ浮いているのかも定かではない不愉快な浮遊感。


 そしてその裏で感じる確かな幸福感。


 この身体に起きている変調は、間違いなくこの上なく甘美で強靭な幸せによるものだった。


 頭を軽く振って、混濁した意識から余計なものを取っ払う。


 ぶっ倒れそうではあるが、ぶっ倒れている暇などない。


 これが彼女の気持ちであるのなら、早急に応えなければいけない。いや違う、ここに義務感はない。私がそうしたい。彼女がこういう行為に及ぼうとしてくれたことが何よりも嬉しいのは、私が彼女のことがたまらなく好きだから。


 だから私の心も彼女に触れることを望んでいる。 


 はい証明完了。もう勢いだ勢い。


「……っ」

 抱擁に失敗して、お役御免していた両腕を持ち上げて、そっと彼女の痩せ気味な肩に手をかけ、私の顔のすぐ下まで寄せる。


「……ごめん、痛い?」


 咄嗟に顔を歪めた彼女に恐る恐るお伺いをたてる。力加減が出来ないほど自分のつまみがバカになっていると疑いたくはないが、いかんせんこの状況、万が一ということもなくはない。


 しかし、目を頑なに閉じたまま首をブンブン横に振る彼女の反応を見て胸を撫で下ろす。


 さぁこれでもう不安は無くなった。


 春の日の下、急接近した私たちは二人で面と向かって顔を付き合わせ、一方は肩に手を置いて、一方は目を瞑って唇を突き出している。誰がどう見てもおそらくそういう現場に見えるだろう。人通りなんてろくすっぽない田舎道だから良いものの、冷静に考えて朝から自分宅の真ん前で一体何をやっているんだ、なんてつまらないことを私は決して考えない。


 これはチャンスだ。


 巡ってきた好機。まさにチャンス到っ来。

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