第二章 はじめまして、人間⑤
太いストローの中を、真っ黒いタピオカが並んで薄い唇のなかへ誘い込まれていく。それを口に含んだその妖精は、少し驚いたように目を丸くした。微かに頬が動いて、噛み締めている。真っ白い肌にすこしだけ朱がさして、口が弧をえがいた。
「……美味しいです。これは……これは美味しい」
「そんなに?」
「ええ、これほど美味しいものを私は口にしたことがないかもしれません。ああ、なんと美味しいのか。人間のうみだす食べ物はどうしてこうも魅惑的なのでしょう。ああ、美味しい」
なかば独り言のように美味しいと繰り返しながら、どんどん飲み下していく。ミルクティーの甘さがいいのだという。飲み込むあいま、歌うように紡ぎ出される言葉は知っているはずなのに異国の響きも含んでいて不思議な気持ちになる。幼いころ絵本を読み聞かせてもらいながら眠りに落ちていた、そのとき夢の入り口で聞いていた音色に似ている。
紬はその音に心地よさを感じながら、満足そうにすっかり飲み干した妖精に尋ねた。
「こっちにミルクティーとかないの」
「あります。味も遜色ないですし、あなたたちが口にするものと特に変わりないです。ああ、素晴らしい甘みでした。美味しかった……」
「じゃあ、なんで」
「昔からあなたたち人間は、私たちに対価を渡すことで交流を成り立たせていました。その対価はおおむね食べ物でまかなわれることが多かった。だからでしょうか、今でもあなたたちの食べ物に、私たちは惹かれてしまうのです」
「ふうん? そういうものなんだ?」
そういえば、歴史の教科書にもそう書いてあった。歴史としては知っていたけれど、文字で見るそれと現実とがあまりにも結びつかない。それほど現実離れした状況に立たされていると言われれば、そうかもしれないけれど。
満足そうな笑みを浮かべる妖精は、先程までとうってかわってよく話す。別人のようだ、と考えながら父親に目を向ければ、逆になにやら考え込んでいるように眉根を寄せていた。
「どうしたの、パパ」
「そうか……対価、なるほど……」
誰に聞かせるでもなく呟く声は、恍惚に頬を染めたままの妖精の耳に届いていないようで、紬と裕子だけが不思議そうに首を傾げて目を合わせた。どうやら母親にもよく分かっていないらしい。
「俊一さん、どういうこと?」
「すっかり忘れていたよ。昔から、人間は対価を渡すことで妖精とやりとりをしていた。対価がなければ動かないのが彼らだ……愛想が悪いわけだよ。そもそも同意の上での案内じゃなかったんだ」
「ええと、だから?」
「紬の渡したそのタピオカのジュースが、案内してもらうための対価になるということだよ。ここまで彼が連れてきてくれたのは、かなり異例と言ってもいいくらいのことだ。本来は対価がなければ動かないのが妖精だから、僕たちは最初からなにかを渡してその代わりに案内をしてもらわないといけなかったんだよ」
妖精は長い髪を揺らしながら頷いた。
「女王に指示されましたから、私に拒否権はなかったのですが。どうしても本能的に拒絶感が出てしまったのはお許しください」
「……謝れるんだ」
思わず呟いた紬に、こら、と裕子から叱責が飛ぶ。今までの態度とあまりにも変わりすぎて、もはや別人が立っているようにも思える。差し出したタピオカジュースがこれほどまでの効果をもたらすとは思わなかった。
「そちらも、ある程度の知識を入れて来られたと思っておりましたが。そうでもないようですね。よくもまあ、最低限の知識も持たずこちらへ」
嫌味を聞くと、変わってないとしみじみ思う。
「さて。対価として“たぴおか”もいただきましたし、渡ることにいたしましょう」
「どうやって?」
「こうやって」
妖精がふぅと息を吹くとさわさわと周囲の木々が揺れる。どこからともなく風がうまれて、紬たちの耳元でクスクスと笑い声をたてながら駆け抜けていった。地面がゆるやかに波打つのが靴底を通して足の裏につたわってきて、むんと草葉の香りが強くなった。
「なに?」
足元をなにかが這っているような音がする。手にしていたきのこランプをかざせば、うすぼんやりとした明かりに照らされて蔦のような植物らしいことだけがわかった。あまり光量のないランプでは、何が起こっているのか明瞭に見ることができない。
「なにやってるの」
「橋を。私は一人でも渡ることができますが、あなたたち人間は飛び越えることはできないのでしょう」
橋ぃ? 困惑したまま川の方へ視線を戻せば、水と溶けあっていた月光が今は人ひとり通るには問題ないほどの橋を照らしていた。
「え、すご……」
「さあ。参りましょう」
歩き始めた妖精の後ろを、紬、裕子、俊一の順で続く。長い髪を間違えて踏んでしまわないよう注意しながら、鼻先をときおり掠める絹糸のようなそれに見惚れる。一度も染めたことのない紬の髪は、俊一譲りの漆黒だ。せめて、茶色がかった裕子に似て欲しかったのに、と口には出さないけれど思っていた。目の前の髪はさらに現実離れしていて、綺麗だという言葉すらそぐわない。夢を見ているみたいだ、と思う。
「ねえ、貴方の名前教えてよ」
妖精は振り向かないまま、フヌイユです。と答えて「よろしくお願いします、ツムギ」と微かに笑った。
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