第二章 はじめまして、人間④
手元にあかりがあるだけで、歩きやすさはずいぶん変わる。木々の隙間に銀色の髪の毛を探す必要がなくなり、まわりの様子を見ながら歩くだけの余裕もできた紬は、ぽっかりと口を開けた木のうろの中から、細い尾のようなものがゆうらりと揺れるのに足を止めようとして、裕子に袖をひかれて断念した。
「なに?」
「さっきのママみたいになりたくないなら、立ち止まらないほうがいいの。そのお気に入りの鞄無くしてもいいの?」
「それは
中には友人たちからの手紙やスマホ——既に機能していないけれど——など、大切なものばかりが入っている。得体の知れない奴に持っていかれるのは御免だ。ただ、動きやすいものにしなさいと俊一に言われてリュックにしたので、そう簡単に奪われはしないだろう。
「ねえママ、ちゃんとチャック締まってるか見て」
「大丈夫よ、それにはみ出てたらもう持っていかれてると思うけど」
「やめてよ、そういうの」
「ほら、よそ見していたら転んでしまうよ。気をつけて」
俊一にたしなめられて、裕子と目を見合わせて黙り込む。前方を歩く妖精は、キノコを渡してくれてから喋ることなく数歩先を歩いている。愛想のない妖精だ。それもこれも、教科書にあったとおり人間嫌いだからなのだろう。紬はひとり納得した。だいたいこっちだって好きなわけではない。こっちだって願い下げだ。
夜が明けるまで歩かされるのだろうか、と思い始めた頃、妖精は突然足をとめた。それに並ぶように、俊一と裕子、それに紬が立ち止まった。森は唐突に途切れ、小川が月光を混ぜ合わせながらゆるやかに流れている。
「ここから我々の世界に入ります」
「まだ入ってなかったんだ」
「ここまでは『狭間』の部分ですから。お父様から聞かれていなかったのですか?」
そういえば、そうだった。ここに至るまでに、紬にとってはあまりにも不可解な体験をしすぎたせいですっかり妖精自治区にいるような気持ちになっていた。妖精の冷ややかな視線に気がつかないふりをしながら、相変わらず半分以上残っているタピオカミルクティーを吸う。その甘さにすっかり辟易していて、それほど好きなわけではないのに購入したのは失敗だったかもしれない。
「で、どうやっていくの?」
小川の深さは見るかぎり膝下程度だが、それも月の光をたよりに予想しただけのものだ。案外深いかもしれないし、予想通り浅かったとしても確実に濡れてしまうだろう。紬は足元を見おろした。暖かいここでは風邪をひくこともあまりなさそうだけれど、濡れるのは避けたい。おまけに靴はお気に入りのスニーカーだし。ドライヤーの存在も危ういこの世界で、乾かす手間を考えるのも嫌だった。天気がいい日がどういうものなのかも予想できないし。
「……」
しかし返事はかえってこない。また馬鹿にしたような顔をしているのかな、腹立つんだよな、と思いながら自身の靴から顔を上げる。妖精は案の定、驚いたように目を丸くして紬を見ている。ほら、やっぱり無知な人間を嘲っている。それにしては目が合わない。どちらかというと、その下の方……紬は気がついた。
見ているのは紬そのものではなく、その手元だ。
「……なに?」
訝しみながら聞けば、紬のほうに数歩近づく。両親のことなどすっかり見えていない様子はあまりにも不自然で、思わず紬は一歩足を引いた。長い、柔らかな草が足を撫でる。
「なになに、怖いんだけど」
「その、貴女の手に持っているものは何でしょうか?」
「なにって……タピオカのこと?」
「たぴ……おか……?」
カタコトに返されたそれは紬の知っているタピオカと違う響きで、それがどうにもおかしい。
「タピオカ飲んだことないの?」
「こちらには、そのような飲み物は存在しませんので。そもそも、こちらの食べ物と人間界の食べ物は異なるものゆえ、あなた方は食べないよう強く言われているはずです」
「じゃあ、あなたも食べちゃダメなんじゃないの」
「私たちはそのような制約は受けないのです。人間の食べ物は我々にはひどく魅力的に見えます、そう、今もそうです。ただ、人間の許可がないと食べることができないのです。これは大変難しい問題です。我々は自由にそのような人間の食べ物を口にすることができず、歯痒い思いをします」
大真面目な顔をして難しそうな言い方をしているが、つまるところ紬の手の中でずいぶんぬるくなっているタピオカミルクティーを飲みたいということなのだろう。紬はプラスチックの容器に入ったとろりと甘い液体と、その中でたゆたう黒い球体を見つめた。正直ぜんぶ飲む自信がなくなっていたところだ。良いタイミングで手放すことができるし、相手は欲しがっている。
「ええと……いる?」
これは別に、ていのいい残飯処理というわけではない。内心でそう言い聞かせながら妖精に差し出せば、あからさまに表情が明るくなった。無表情か見下したような表情しかしないと思っていたけれど、どうやら違うらしい。
「ほんとうに? いいのですか?」
「うん、ちょうどよかったし」
「?」
「なんでもない。そんな珍しいものなら、あげるよ。私は向こうでたまに飲んでたし」
小躍りするんじゃないかというほど嬉しそうな妖精の髪が、月光を浴びて白く光りながら揺れる。ではさっそく、と伸ばされた細い指が、すぐ目の前で止まった。困惑したような表情。
「いらないの?」
「あの、申し上げづらいのですが……人間の言葉がないと受け取ることができないようです。お願いしてもよろしいでしょうか」
「ええっ、なに、なに言えばいいの」
そんな秘密の呪文みたいなもの、聞いたことがない。教科書にも書いてなかったじゃないか。早く、と急かすような表情に紬は困惑した。なにを言って欲しいの? 頭の中にある妖精に関する情報をかき集めるけれど、思い当たる言葉が見つからない。
「ほら、我々隣人に差し出すときの」
隣人、という言葉にふと思い当たるものがあった。
「……良き隣人さん、貴方にこれを差し上げます」
「ああ、ありがとうございます、受け取ります」
すっかり頭の隅に追いやられていた、友人達とめくったいくつもの本で見かけたそのセリフは、どのおとぎ話の中にあったものだろうか。ふざけているように見えて、的確に本を持ってきたものだ、と数日前にお別れ会をしてくれた友人の顔を思い浮かべる。
その間に手からはタピオカミルクティーが消え去り、目の前の妖精はご機嫌でそれを吸い上げていた。
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