第二章 はじめまして、人間③
つかのまの沈黙。絶句という言葉がふさわしいだろう、その状況に目の前の妖精は首をかしげる。長い髪がしゃらしゃらと揺れる。
「どうかしましたか?」
心底ふしぎそうなその表情は、どうして三人が驚いているのか本当にわかっていないのが見てとれる。驚きと怒りとが混ざり合って震える声をどうにか抑えながら、紬は一歩その妖精に詰め寄った。間近で見る顔は絵画のように整っていて、むしろ怖いほどだ。美しい顔は左右対称だと聞いたことがあるけれど、完璧な左右対称はむしろ現実離れして見えるらしい。
「なんでずっと居たのに声もかけないのよ? なんか言えばいいでしょ、私たちがここで待ってたの、すぐ隣で見てただけって、ありえない」
「私の方がずっと長く待っておりましたよ。それに、声もかけましたが聞こえていないのはそちらの方でしょう。目の前に立っているのに見えもせず、聞こえもせず、ただなにもないと思っている森で立ち尽くして。新しいニンゲンが来るのは珍しいことですから、皆が挨拶をしようと集まっていたというのに、失礼なのはどちらの方か、ご一考されてみてはいかがですか?」
は? どういうこと? と眉根を寄せた紬の目の前をひとすじの光がついと横切って、意識がそちらへ持っていかれる。ふ、とそれを追えば小さな蝶のようなものが森の方へ消えていった。木々の立ち並ぶその影のすきまから、小さな目がきらりといくつも光っている。
「え、なにあれ」
おもわず溢した紬に呆れたような視線を投げかけて、妖精は背後の俊一に声をかけた。すでに紬に対する興味は薄れたのがわかる。カチンときたけれど、主導権はこのいけすかない妖精にあるのもわかっている。案内してもらわないと、これから住む家にすら辿り着けないのだ。
「あなたがハエノ=シュンイチで間違いないですか」
「はい。私が南風野俊一です。貴方が案内役でしょうか? 私たちの視野の狭さゆえ、ご挨拶が遅くなり大変失礼いたしました。お心遣い感謝します」
「邸宅までご案内します。ついてきてください」
それだけ告げてくるりと背を向ける。紬の鼻先を、月光を反射しながら長い髪がかすめていった。月夜の蜘蛛の巣みたいだ、と思いながら紬は俊一と裕子に目配せをして、そして揃ってあとをついて歩き出した。
空が明るいとはいえ、木の葉を透かして地に届くわけではない。空を覆うように手を伸ばす木々は四人のために道を譲る気はないらしい。根ごと動いて行く道をしめすくらいの非現実みがあってもいいだろうに、と思う。そんなことを言えば、きっとまたあの呆れたような苛立ちをさそう表情をうかべるのだろう。何も言わないのが得策なのは、紬にもわかる。そして、それよりも数歩先を歩く妖精のあとをついていくだけで精一杯でもあった。
薄暗い森の中を歩くのは骨が折れる。夜闇のなかだろうが、いとも簡単に歩いている妖精と違って、紬たちは木の根につまずき、しなる枝に腕を打たれながらどうにか歩みを進めている。そうしているうちに、振り向きもしない妖精との距離はじわじわと離れていって、気がつけば木立のあいだに光る銀色の髪の毛だけが頼りになってしまった。
「ちょっと、ありえないんだけど……」
あがる息もそのままにそう漏らせば、隣で俊一がはは、と困ったように笑う。
「彼等は僕たちとは違う価値観を生きてるからね。それに、人間との関わりも薄いからどういう生き物なのか分かってくれてるわけじゃない」
「だからって、案内役、なんだったら、もうちょっと……いたっ」
くそっ。ぴしりと枝に頬を叩かれて悪態をついた紬を、裕子が小突いた。行儀の悪さは見逃してほしいけれど、そうもいかないらしい。裕子は俊一の腕に捕まってどうにか歩いている状態で、紬のほうが体力的には少し余裕がありそうだ。運動部ではないけれど、さすがに十代の体力のほうが勝っているのは当たり前だろう。
その裕子が唐突に足を止めた。腕を引かれた俊一が背中をそらして、それにぶつかった紬は再び悪態をついた。くそ。
「あっ、ちょっと待って、鞄ひっかけちゃった」
「大丈夫かい?」
「……枝かな、取れないのよ」
ぐいと引き寄せようとしても、うまくいかない。それどころか、鞄は何かに引っ張られるように裕子の手から離れようとする。
「ママ、なにやってんの」
「鞄! 持っていかれそうなのよ! ちょっと、変よ、これ。絶対に枝じゃない!」
困惑した裕子が必死に力をいれているのが隣にいる紬にもよくわかる。鞄の紐はすぐそばの闇に溶け込んで、その向こうに何がいるのかは見て取れない。ちらり、と小さな手が見えた気がしたけれど気のせいかもしれない。
「ちょっと手伝ってよ!」
裕子の悲鳴にも似た声にあわてて手を伸ばすけれど、二人そろって引きずられそうになってさすがの紬も焦った。力が強すぎる。
「パパ!」
叫ぶと同時に、目の前にあかりが差し込んだ。
「まったく、面倒な方々ですね」
先ほどと同じ、呆れたような小馬鹿にしたような表情がすぐ目の前にある。手に持っているランプは煌々とあたりを照らし出して、ようやくすぐ目の前に立っている、母親の表情が見てとれた。必死だったのだろう、強張ったその顔のまま鞄を抱き寄せた。
「なに、いまの」
「悪戯が好きな者もおりますから。貴方がたの世界に、善人と悪人がいるのと同じように。あまり気にしないことです。ああ、あと、人間の持ち物は興味深いですから、なるべく肌み離さず持っておられたほうがいいかと」
そう言いながら妖精は紬たちにランプを一つずつ持たせた。
「あかりがないと何も見えないのですね、不便なものだ」
渡されたそのランプは、よく見ると大きなキノコだった。
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