第二章 はじめまして、人間②

 はたしてここが妖精界なのか確信は持てないけれど、よくよく考えれば日本の夜はまだ肌寒かった。紬は羽織っていたスプリングコートを脱いで薄手のニット一枚になる。それでも暑いほどだったけれど、さすがに脱ぐわけにもいかず諦めた。空気が乾燥していてよかった。それだけでずいぶん過ごしやすい気がする。

「迎えが来るんだよね?」

「そのはずだよ。パパも会ったことないから、どんな形で来るのかわからないんだけどね」

 そう言われて、あらためて自分の常識からかけ離れた方法で迎えがくる可能性に思い至った。まわりは木立が囲んでいるし、車での迎えは期待できなさそうだ。それともかぼちゃの馬車で来るだろうか、あのおとぎ話みたいに。想像してみると、確かに星月の明るい夜に迎えに来るかぼちゃの馬車はそれっぽさがある。似合うというか、この景色にふさわしいというか。ただその馬車に乗車するのは紬とその両親で、残念ながらドレスアップしていないし、行き先は舞踏会でもなく駐屯地だ。

「——あほくさ」

 だいたい、車が通れない場所を馬車が走れるわけがない。どうかした? と怪訝そうな顔をする俊一になんでもないと返しながら太めのストローに口をつけた。じゅこ、と吸い上げたタピオカの弾力を感じながら口を動かしているうちに時間は過ぎていく。森はひどく静かで、虫の鳴き声ひとつしなかった。どれくらい時間が経っているのかも曖昧で、頼みの綱だと思っていたスマホの日付は見たこともない数字を羅列している。それを見ると、いよいよ妙な場所に飛ばされたのだと実感がわいてきた。

 それにしても、誰も来ない。待ちくたびれた裕子が苛立って足元の草を踏みしだいている音が耳に届く。あまり待たされるのが好きではないのだ。このままだと、迎えが来るより先に方向も考えず走り出してしまうかもしれない。知らない土地で駆け出した母親を見つけ出せる自信は紬にもなかった。

「ねえ、ほんとに来るの?」

「来る……はずなんだけどな。パパの思い過ごしだったかな」

「いや思い過ごしとか困るんだけど。ここから、新しい家までの場所はパパにもわからないんでしょ?」

「迎えの時間は合ってるの? さっきから時計が役に立たないのよ。針は見るたびに変な方向にむいてるし、スマホは日付おかしいし、嫌になるわ、ほんと」

「時間という概念がない相手だからなあ……」

「え、じゃあいつ来るかわからない迎えを、ここで待ってろってこと?」

 うそでしょ……絞り出したその声は静かな森の中でいやによく通った。このまま夜が明けて、朝が——くるのかも分からないが——きても、迎えが来ないという可能性もあるということなのか。

「さすがに朝まで、ってことはないと思うんだけどなあ」

「朝まで待たせる予定はありませんよ」

 突然乱入した声は、りんと鈴が鳴るような、メロディをともなわない歌声のような、遠くから聞こえてくるようで、すぐそばの葉からこぼれ落ちたような、不思議な音だった。言葉をうしなって顔を見合わせた三人はすぐに周囲を見回したけれど、誰も立っていない。誰かが近づいてくるような足音もせず、相変わらず音のない森にかこまれている。

「どこ? パパ、見える?」

「いやあ、わからないな……」

 幻聴? けれど確実にその場にいた全員が声を聞いている。紬は困惑したように森のほうへと目を凝らした。誰もいない。

「私たちを迎えに来られた方でしょうか?」

 どこへ声をかけたらいいかわからないまま、暗闇に向かって俊一がおずおずと声をあげた。

「——いかにも」

 再びあの妙な声。確かに誰かいるらしい。

「すみません、私たちには貴方の姿が見えず……どちらにおられるのか、示していただけませんか」

 葉擦れのようなため息がひとつ。

 それから唐突に、本当に唐突に目の前に人が立った。歩いてきたのも見えなかった。まばたきをひとつする間に走ってきたわけでもないだろう、虚空からあらわれたとしか思えないその人物は、銀色に輝く長い髪を揺らしながらさも面倒くさそうにそこに立っていた。長い髪は滝のように地面に流れて扇状に広がり、一見ひどく色白のように思えたが、彼——あるいは彼女——自身から光が溢れて輝いているようにも見える。現実離れしたその外見は、教科書の図録に載っていたものよりも、映画やおとぎ話で見たことのあるそれに似ている。

 さすがの俊一も驚いたようで、言葉が出ない。紬は思わず隣の裕子にしがみついていた。かぼちゃの馬車なんて可愛いものじゃない、幽霊かと思った。

「信じているものしか見えないんですから、ニンゲンというものは難儀なものですね」

「いつから、ここに?」

「最初からいました」

「え、」

「貴方達がこちらに到着した時から、ずっと」

 まったく、面倒な役目をおおせつかったものです。誰にいうともなく呟いて、それから改めて目の前の妖精は三人に目を向けた。黄色がかったガラス玉のような瞳を長いまつ毛が飾っている。何度かまばたきをして、それから気を取り直したように口の端を少しだけあげた。おそらく笑顔だろう。

「はじめまして、ニンゲン」

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