第二章 はじめまして、人間①

 足元を彩る花のリングを隔ててすぐ目の前で頭を下げていたはずの谷田が霞むように消えたかと思うと、視界は突然白色に染まった。眩しさに幾度も瞬きをくりかえすが何も見えてこない。ただただ、白い。あるいは光が世界を満たしている。上も下もわからない、足は地に着いているはずなのに、そこすらも同色なものだから浮いているような錯覚を覚える。いや、もしかしたら実際に浮いているのかもしれない。人間界から所謂妖精界への移動がどのようにして行われるのかわからないのだ、実際飛びながら移動していると言われても「はいそうですか」としか言いようがない。風というほどでもない、強いて言うなら流れていく空気が頬を撫でて紬の前髪をふわりと浮かせる。飛んでいる、というほどの勢いはない気がする。特に怖いものが出るわけでも、害を与えられそうな気配もない。けれども突然その身に降りかかった初めての体験は動揺するのに十分だった。

「えっ、なに」

 狼狽えて思わず足を踏み出そうとした紬の肩を掴んだ手が後ろに引くので、振り向けば俊一と目が合った。

「下手に動くと、降りる場所を間違えてしまうよ」

「降りる場所って……」

 見ればもう片方の手は、不安そうな裕子の肩をしっかりと抱いている。今まで叩かれたどころか、強く腕をひかれたような記憶すらない温厚な父親の、その力の強さにこれまで紬が持ち得ていた常識がすっかり役に立たなくなってしまったことを、今更になってようやく実感した。

「ここ、どこなの」

「パパも初めてだからよく分からないけど、狭間にあたる場所だと思うんだ」

「狭間……」

「人間の住む世界と、妖精達の住む世界を隔てたちょうど間の部分だよ。普段、人間が簡単に入り込めないようにこの狭間は広く、誤って入ってしまうと出られなくなってしまうんだ。さっき谷田からも説明があったろう?」

「春分と秋分の日だけ、繋がりが強まるって言ってた、あの話?」

「そう。普段はこの部分が広くて、迷い込んだら出てこられないようになっている。もちろん妖精界にも辿り着けない。その狭間が狭くなるから、つながりが強まる。その代わり迂闊に動いてしまうと道から逸れてしまう可能性がある。万が一逸れてしまうと、どこにも出られなくなるかもしれないから、今は動かない方がいいとおもう」

 普段から頼りないというか、家庭内での発言力の弱さが目だつ俊一だが、このなかでは最も妖精に関する知識が多いのは事実だ。さすが人外局局長、仕事で関わるだけに入ってくる情報量も段違いに違いない。今更ながら父親の仕事がこういった『隣人』を相手にしているものなのだと実感する。いやそれよりも。紬は眉間に皺を寄せた。

「ちょっと待ってよ。最初からそれ、言ってくれたらよかったのに」

「ほんと、俊一さんはもう少し紬と話をしたほうが良かったんじゃないの」

 紬どころか不安そうに俊一にしがみついていたはずの裕子にすら、責めるような視線を向けられてたじろいだ俊一は目を逸らした。

「はは……何を言っておかないといけないのか、パパも少し混乱してたのかもしれないな」

「いや重要事項じゃん、これ」

 これは引っ越し後も聞いてない、という案件が多々ありそうだ。紬は大きくため息をついた。視線を落とせば、手に持ったままのミルクティーの中で、タピオカがゆらゆらと揺れる。そういえば山道に差し掛かってからほとんど飲めていないせいで、半分以上残っている。車酔いしない質とはいえ、あの揺れの中でタピオカミルクティーを飲むほど強靭な胃袋と三半規管を持っている自信はなかった。

「これ、持って入ってよかったのかな」

「大丈夫なんじゃないか? むしろこっちの食べ物は持っておいて損はないと思う。到着まで持っておくといいよ」

「ふうん?」

 何かに使うことがあるんだろうか、太めのストローから吸い上げたそれは、すでに随分ぬるくなっていて、あまり美味しいとは思えなかった。一口だけ飲み下してすぐに口を離す。

「どれくらいで着くの? 近づいてるっていう割には、時間かかるじゃない」

「ママ、こういうの苦手だっけ」

「なんか浮いてる感じがダメっていうか……そもそも、ここに来るまでに気持ち悪くなってたからダメだわ」

「もうすぐだと思うよ」

 俊一がそう言うやいなや、突然白色だった世界がぼやけ始めた。いや正確にはぼやけた景色が白色に混ざり始めた、という方が正しいだろうか。あれ? と思いながら何度か瞬きをするうちにだんだんその景色ははっきりとした輪郭をあらわしはじめ、それと比例して霧が晴れるように白い光は薄まっていく。そうして気がつくと三人はやや開けた場所に立っていた。夜のようだが、周囲は木々に囲まれた森であることがよくわかる。木々の葉の形まで見えそうなほどの星と月の光に照らされながら、三人は顔を見合わせた。

「ここ……?」

「着いた、みたいだね」

「ほんとに?」

 ぐるり、と見回せば人気はなく、そして目に入るものも花の輪に入る前とさほど違いもない森。人間界と何が違うのかわからない。テーマパークの新しいアトラクションの試運転で、VRゲームで転送気分味わいました、と言われたら納得してしまいそうだ。違和感と呼べるものがあるとすれば、空の明るさくらいだろうか。

「ほんとに妖精界なの?」

「そのはずなんだけどなあ、谷田もいないし。お迎えがくる予定だから少し待ってみようか」

 寒くも暑くもない気温は過ごしやすい。太陽が出ていないにもかかわらず、春の陽気をそのまま夜に持ち込んだようなあたたかさだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る