Troisième ―― いつも心にヒルベルトを懐いて

Gewohnliche Kinder ―― 普通の子



 具象は抽象を、超越できない。


 内在する捨象を意識できない具象にのみ思考の焦点を結ぶことは得てして危険であるが、多くの人々はこの点について概して無関心だ。


 このことに異を唱える向きは、恐らく殆どいないだろう。そのくらいに当たり前のことであり、だからこそ抽象の一部分でしかない具体的な存在には、抽象と言う見えない枠組みを超えることは不可能であると考えるのが正しく思える。


 畢竟ひっきょう、僕らの目に見えている事象と言うものは限局的な存在に過ぎず、真実としての全体は自らが捉えようとしなければその姿を顕現しようとしない。


 大まかに言えば、これら事実の演繹の壁を超えられない空間に、極普通の知性と呼ばわれるものが存在しているのだと言う結果について、僕は多少の瞋恚しんい憂戚ゆういを覚えずにはいられない。


 世間の平均と言うヤツが、どのくらいの値を指しているのかは知らない。ただ一つ

言えることは、僕ら「特別級」の生徒と言われる連中が、その平均からは大きく乖離したところにいることはどうも間違いなさそうだと言うことだ。


 季節が冬の便りを速達で届け始める頃、僕は一つの大きな問題を抱えていた。〝理事会〟への紀要論文は提出している。抱えている宿題はあるにせよ、解決が早急である理由は今の所僕の手元には存在しない。言うなれば、僕は僕の知的欲求に対して極めて実直に振る舞うことを許されていたはずだった。それがここに来て急に、学校職員から一つの命令を下されたのである。


「……うーん」


 僕にその「命令」を下した数学科の教科主任教諭は、僕の作った問題を見て一言唸ったかと思うと、機嫌の悪さを隠そうともせずに言う。


「申し訳ないが、これじゃあ試験にならない。確かに作問の労を取って貰っている限り、私たちも大きく出られるわけではないが、この六問セットに一八〇分で回答が書けるなら、この学校に教師は要らん」

「……つまり?」

「前回よりは易しいが、それでも難し過ぎる」


 どうしてそれがわからないんだ、と言いたげな眉間の皺をした教科主任は、厳かに老眼鏡を外して僕に言った。


「確かに君には、造作もない問題に過ぎないだろうさ。だがね、相手は普通の高校生なんだ。確かに本校の生徒は世間的にどれだけ秀才だと言っても、彼らは君らとは違って、極普通の高校生に過ぎない。勿論中には天才的な頭脳を持つ可能性が、一分でも一厘でも残っている生徒もいるが、君にしてみればそれでも不勉強な高校生だ」


 そうは言われたが、僕はきちんとこの国の後期中等教育のカリキュラムを守っている。彼らが高等学校の過程で学んだことが定着している限り、十分回答可能のはずだ。


「オイラーのトーシェント関数、数列漸化式の固有多項式、ダルブー和を誘導する積分論、測度論を背景とした確率変数の定義、ZFC公理系による集合論、それにペル方程式。確かに誘導に使っている素材は高校数学の課程に含まれるよう慎重に誘導されているが、問題の真意はその内容から大きく逸脱している。高校数学と言うのは君が思っているほど厳密ではない。そんな答案が書けるのはこの学校にはいない」


 そう言って教科主任は席を立った。放課後なので、グラウンドでは運動部員たちが練習に励み、新校舎と呼ばれている少し離れた校舎の屋上からは、下手で五月蝿いだけの金管楽器の音が響いている。


「集合だって確率だって、整数だって初等的で直観的なものだ。微積分に至っては言うに及ばず、ε‐δ論法だって彼らは習っちゃいないんだ。確かに、君にとってこの国の大学入試問題などと言うものは、一つも本質的でないし、これで試験になるのかと疑問を抱くのかも知れん。だが、現実はこの程度で十分試験になる程度の学力しか持っていないのが、この国の後期中等教育の実態だ」


 教科主任はキャビネットにあったファイルから、一冊の冊子を取り出す。誰もが名前なら知っているだろうが、実際に問われている出題については歯が立たないと思われている学校で、実際に出題された数学の問題だ。


 目眩がする思いだ。これで六割取れれば合格圏内だって? どれだけ数学を知らない連中が入学しているんだこの学校は!


「君がどれだけ不安を覚えたとしても、これが世間の標準的な母集団の中で最も高成績を持つものたちの実態だ。あまりに具体的に示されたこの結果に対して、君が失望を覚えるのは仕方がない」


 失望と言うより、僕には絶望だ。


「だが理事会は、君たち特別級の生徒たちを趣味で囲い込んでいるわけではないのだよ。つまり、君らが生きている世界の実態を知る、君らがどれだけ特別な、選ばれた人間であるかを自覚させることも、この『学園』の役割だ。君らにわざわざ、卒業考査の試験問題を作問させているのは、そのギャップを埋めるための一つの試みだ」


 余計なお世話だ、と言いたいところだけど、僕ら「特別級」の生徒がこの学園に飼われている存在だ、と言うことは否定できない。学費どころか生活費、ありとあらゆる貨幣経済に紐付けられた行為のすべては、学園が握り込んでくれている。


 いや、もっと露骨にこの学園に「飼われている」生徒と、僕はこの秋に奇しくも知己を得た。


 ――――野宮ののみや和子かずこ


 百年以上に亙る悠久の時を経ていながら、その姿形を幼子のままに留められたまま、この旧図書館の中で理事会意外の人間には誰にも知られずに〝博覧強姫はくらんきょうき〟の二つ名を持つ、この世の森羅万象を知る少女。


 野宮なら寧ろ、こうした世間と僕らのギャップに関しても熟知しているのだろうから、あまり苦労せずに対応し続けて来たのかも知れない。もっとも、野宮が卒業考査の作問をするなどと言う俗な仕事を受託するか、と言うと相当に疑問符が付くのだが。


「そんなわけで、もっと難易度は下げて欲しい。君にも文句はあるだろうけども、これは君ら特別級の生徒の義務だ。君の知らないところで、同じ様に特別級の生徒が卒業考査の試験問題を作問している。申し訳ないが、頼んだよ」


 教科主任はそう言って、左手の手のひらをヒラヒラと振りながら、談話室を出て行った。僕は彼の視線には恐らく入っていないだろうけれど、小さな抵抗を示した。その実際の入試問題とやらの冊子を、丸めて床に投げ付けることで。


……………………


「――――それはぬしが悪い。要領が悪い」


 学園の「旧図書館」、と言ってもその存在を知っているのは果たしてこの学園の職員を含めても何人いるのかは不明だが、現キャンパスからは深度にしておよそ百メートルは地下に潜っているだろうか。かつては本校舎として使われていたが、時の政府――これが明治新政府だと言うのだから破格である――との対立を避けるために、自らの手で地下に埋もれて学識の地下墓所カタコンブと成り果てた建物の中に、一人棲まう少女がいる。


 その名も〝博覧強姫〟、野宮和子その人である。


 滅多に登校することを命ぜられることもない僕ら「特別級」の生徒に、この学校の中の居場所はない。名簿には便宜上クラスが割り振られているが、そのクラスの教室に僕の席はない。初めから用意されていないし、実際にそのクラスに在籍する生徒は、僕もクラスに割り当てられていることを知らない。


 そんな僕にとって、目下唯一の居場所になっているのが、この旧図書館だ。


 野宮は姿形こそ小学生並みだし、その見た目に似つかわしく声も幼いが、この学園の地下で百年以上を生き、最早この旧図書館に死蔵されていると言っても過言ならざる大量の書籍を、長い年月を使って読み漁ってきた、文字通りの〝博覧強記〟たる人物だ。


 彼女に知らないことはない、と言うことは実際には不可能だが、世界に棲まう多くの人類の知識を凌駕する存在であることに変わりはなく、その上口調はえらく時代がかっていて、ついでに言えば酷く高慢だ。


「そんなにはっきり言うことないだろ、野宮」

「ならばぬしに味方すれば良いと申すか? これはわらわたち特別級の生徒に学園が課した『義務』じゃからの。〝数学に囚われた男〟が全力で作った問題など、普通級におるようなただの秀才が容易く解けると思うでない。連中の多くが長けているのは、大学入試で問われることへの適応性であって、学問への本質な希求心などではないのじゃよ」


 やれやれだね、と僕は旧図書館の中に有った数学の問題集――勿論現代のカリキュラムに則した内容のものだ――を投げ出して、天鵞絨の絨毯の上に横になる。旧図書館内の気温は一年を通してほぼ不変であり、従って概ね摂氏十八度程度の恒温空間として維持されている。恐らくは維持している機関が存在するのであろうが、野宮が百年以上に亙って外部栄養のみで生存を続けられる仕組み同様、その一つ一つの原理には立ち入らないことにしている。


「……それで、野宮もやっぱり出題を頼まれているのかい?」

「無論、とは言え今年は国語だけじゃ。例年に比べれば幾らも手間ではない。概ねこの学園の『特別級』に招かれてやってくる学徒の多くは、ぬしや霜田しもだ葉月はづきのように理数系が多いのじゃが、幸い今年までは英文学や社会科学に長けた人材がおってくれてのう。御蔭で妾の担当科目は国語だけじゃ。どうせ三年生の卒業考査なぞ、入試前の力試し程度に過ぎぬ。半日仕事じゃから、ぬしのようにバタバタすることもないわい……まぁ、などと言っておるが妾の出題も必ずケチが付くがの」


 はぁ、そうですか。そんなに暇なら、ついでだから数学の問題も作ってくれないか、君ならそれこそ半日かからず作るだろうよ、と言いたいところだったが、恐らく素気無く断られるだろうことは予想に容易い。


 だが、野宮が不意に口に出した女性の名前に、僕は引っ掛かりを覚える。


 霜田葉月。別名〝計算に愛された女〟。


 理論計算機科学や、その母体となった代数学を中心とする形式科学は元より、物理学、情報工学、機械工学、エネルギー工学にも長け、たった一人で自己増殖しながら並列稼働する巨大な機械式計算機システム〝時計塔〟を創り上げ、自らを「人類史上最初の女性コンピュータプログラマ」としてその名を刻む、エイダ・ラブレスの表徴だと言った文字通り稀代の天才。その女生徒の名だ。


 だが彼女の〝計算に愛された女〟としての資質は、不思議なことに〝時計塔〟の崩壊と共に消失してしまった。それを期に彼女はこの学園を去って、もう半年近くにならんとしていた。


「……記憶の遡及防壁とやらの正体も掴めないまま、冬が来てしまったなぁ」


 絨毯の上でだらしなく横になった僕の言葉に、野宮が呼応する。


「よく言うわい、概ね理論構築だけなら済んでおるじゃろう。じゃが、やっぱり手が足りんのう」


 確かに〝計算に愛された女〟が居てくれたらと思うことは有る。野宮と僕だけでは、実践力と言う部分に大きな不足があるのは事実だ。


 だとしたら、それは本当に正体を掴めているのか、と疑問に思う。理論的には間違っていないだろう、だが実際のところはやってみなければわからない。それが本当に「正体を掴んだ」と言う状態に等しいだろうか。


 ここ半年足らずの間ではあるが、僕と野宮の間の「悪巧み」は色々と密やかに進捗していた。


 僕には、この学園に入学するまでの向こう三年ほどの記憶が、完全に欠落していた。僕だって恐らく中学には通っていたはずだし、その三年間が時間的に短絡を起こしているとは到底考え難かったのだが、その理由が僕の形而上に存在する潜在意識場に構築された「遡及防壁」と言うメカニズムであることを突き止めたのである。


 ただ、実際にその「遡及防壁」が破壊できるかどうかはわからない。そのためには、大量の計算を実行し、かつスムーズにアウトプットするシステムが必要なのだが、生憎と僕らはコンピュータシステムに明るいわけではなかった。その点が、僕らをして更なる階梯を進捗することを拒む最大の要因だと言うことまでは、理解しているのである。


 僕らが〝計算に愛された女〟の再臨を望むのは、そんな自己都合の塊に過ぎなかった。実際のところ、僕は僕自身に枷として嵌入された「遡及防壁」を除去することに、それほどの意義を見出だせているわけではなく、平たく言えばこのままで何も困ることはない。僕自身は野宮ほどではないにせよ、この学園に飼われていても不満はないし、敢えて克服しなければならないほど重大な過去が僕に有ったとは思えない。


 だが、それでも僕らは「遡及防壁」に向き合わざるを得なかった。何となれば、それは鎌首を擡げた知的好奇心の噛み付く先として、極めて理想的な素材だった。それ以上の表現は不可能だったのである。


「……野宮は還って来ると思うかい、霜田葉月が」


 野宮のための生命維持システムの一部でもある、柔らかで青白い仄光ほのあかりを自然に放つガスが、辛うじて照らしている「旧図書館」の天井を見上げながら呟く。


「可能性は有る。〝時計塔〟と共に霜田葉月は……〝計算に愛された女〟は喪われた、そう考えるのが自然じゃが、ぬしはそれでも彼女に恋文を渡したのであろう?」


 恋文ねぇ。即ちラブレターなのであるが、実際にあの日――霜田葉月ではなく、一人の平凡な女子高生・霜田先輩と最後に出会った日、確かに僕は先輩にUSBメモリを手渡した。霜田葉月への、或いは彼女をして表徴せしめたエイダ・ラブレスへのラブレターだと嘯いて。でもその中身は三本のPDFファイルであって、そのいずれも一般的にラブレターだと認識できる代物ではないだろう。


 だが、霜田葉月が『復活』するならば、正確に言えば彼女が再びあのPDFファイルの内容を読み解き、そこに描かれた単純系p-進体幾何の重大成果である、単純系の「構造限界」と呼ばれる、座標近傍に於ける極限の表現と、複雑系への構造的変換に付随する問題をクリアできたならば、彼女はきっと同時にもう一つの事実に到達する。


 それが、僕の言うところの「ラブレター」の意味でしかなかったのだけれども、野宮はなぜそのことを知っているのか。いや、詳しく問うのは止めておこう、なぜなら野宮は〝博覧強姫〟であり、現世に於いて知らぬことなどないのだ。


「確かに渡した。でも、どうやって今の霜田先輩が、正解に辿り着けると? 幾ら〝博覧強姫〟の予想とは言え、少し楽観に過ぎやしないか」


 上半身だけ体を起こすと、野宮は文机に向かって背筋を伸ばし、サラサラと慣れた手付きで半紙に筆を走らせている。どんなデバイスだって不都合なく使い熟せるだろう野宮がなぜ、敢えて前時代的なアナログなデバイスに拘るのかは解らないが、彼女にとって最も使い勝手の良い手段なのだろう。


 その野宮が、不意に手を止めて僕のほうに顔を向けると、ニヤリとした悪辣な微笑を浮かべ、よりにもよってこういうのだ。


「――――勘じゃよ。オンナの勘と言うヤツじゃ」


 その表情にすっかり毒気が抜かれてしまった僕は、今日はこれ以上ここで与太話を繰り返してもなんら進捗する可能性が得られないと判断すると、取り敢えずさっき投げ捨てた数学の問題集を懐に突っ込んで、旧図書館を後にすることとした。

 今思えば、あれは世間的に言うところの「ドヤ顔」と言うヤツなのではないだろうか。そんな気がした。


……………………


 旧図書館の接続口は、現在の図書室の書庫だ。この時間の図書室は普通級の学生で溢れ返っていて、すっかり自習室と化しており、静謐さとは無縁の空間に成り果てている。


「よう、特別級の天才クン。旧館通いに精が出るねぇ」


 司書教諭が勤務しているカウンタの後ろに僕が出て来たところで、彼女が声を掛ける。こちらには目線も寄越さずによく分かるものだと思うが、彼女せんせいはいつもそうだ。いつも彼女が座っているとは限らないが、あの秋の一件――つまり僕が野宮和子と出会うことになり、旧図書館に自分の居場所を定めることとなった日から、彼女は僕と言う存在に機敏に反応する。


「ただの愚痴話ですよ。知ってるでしょう、特別級の生徒が卒業考査の問題を作るって言うことは」

「それはまぁ、これでも職員だからな。その様子だと、教科主任とやり方が合わなくて筋違いの文句を言われた、と言うところか。今の数学科の主任は今年から主任になったんでね、君ら特別級の生徒との付き合い方を知らんのだよ。すまんがせいぜい彼を満足させてやれる程度に簡単な問題にしてやってくれ。考えてもみろ、その問題を解くのが誰かと言うことを」


 図書室と言う体面上、彼らは大声で喚き散らすわけでもないが、ひそひそ話は音量こそ小さくとも、空気を必要以上に混ぜ返す。分子運動の一つ一つが束になって図書室全体を複雑にする。控え目に言えばうるさい。


「彼らも世間的には秀才だと、僕は聞かされていますけどね」

「秀才なんて他人よりちょっと勉強ができるだけの、所詮ただの『普通の子』だ。お前さんたちとは訳が違う」


 普通の子。司書教諭は少しだけそこの語気を強めて言う。


「僕だって多少人より数学ができるだけの『普通の子』ですよ」

「じゃあ、あそこに混ざって同じ様に学校生活を送ってみるんだな。それができないから、お前さんは特別級にいる。違うか? 〝数学に囚われた男〟よ」


 そう言われては、何も言い返せる気がしない。


 僕は確かに、彼らが普通の子だと言うのなら、普通ではないように思う。寧ろ僕は、彼らよりも劣っているとさえ言えるのかも知れない。


 この学園に入学する以前の三年間と言う欠落以上に、僕は何か人間的に問題の有るものを欠落させている。何かで補填することも難しい。何をして僕は〝数学に囚われた男〟などと言う汚らわしい二つ名を背負わされるまでに身を貶め、自らを普通たらしめる要素を欠くに至ったのだろうか。


「……僕は何を失ったと言うんだ」

「さぁな。それはお前さんにしかわからん。何を失くしたかを知ることが枢要か否かも判断しかねるが、お前さんはもうそこに手を突っ込もうとしているんだろ。だったら、自ずと答えはわかる」


 司書教諭は相変わらず僕に視線を合わせない。慣れた手付きで伝票様の書類を捌き、機械的に整理されていく様を見ると、彼女もまた有る種の才能に恵まれた要素を包蔵していながら、存分に発揮する場を得られることなく、こうして騒々しい図書室のカウンタの奥で燻り続けるのかも知れない。


「……今日は帰ります。問題作らないと」

「ああ、くれぐれもほどほどにしてやってくれよ」


 カウンタの奥から司書教諭の横を素通りする。今や僕と彼女で。二人が目線を合わせることは殆どない。登板の図書委員らしい女生徒が、僕らの会話を聞いていた様子だったが、僕と不意に目線が合うと恐ろしい物でも見たかのように視線を避け、書庫に逃げて行った。失礼な。


 本館を出て正門までのエントランスに出ると、冬の訪れを雄弁に告げるような冷たい北風が吹き付けた。既に日も暮れ泥み始めており、照明も灯り出している。次に来るのはいつになるだろうか、と思いながら僕は憂鬱な作業に頭を切り替えなければならない。


 それに比べたら、確かに普通級の生徒は季節休暇に入らなければ毎日登校するのが当たり前であって、僕らのように用事があるから来るなどと言ういい加減な登校の仕方をしないのだがら、それに比べたら僕らのほうが自由に見えるだろうし、反面いい加減に映るかも知れない。


 実態としての具象は一般的な抽象性の部分でしかないが、彼らにとって具象からその先の抽象を議論することは自然なことではないのだろう。敢えて酷な表現を取るならば、目の前にある事実以上のことに、彼らは踏み込まないし、踏み込めないのだ。


 だが、僕はそこで新たな発見をした。


 構造物上としてはピロティだが、実際の建付けとしてはほぼ吹き曝しに近い。殆ど外気と変わらないこのピロティの中には、照明設備と共に幾つかのベンチが併設されているのだが、そのベンチに腰掛けて古い作りの本を読んでいる生徒がいることに気付いた。


 その女生徒はコートも着ずに、一心不乱に書籍にのみ眼鏡の奥の視線を向けている。襟の白線が三本と言うことは、彼女は三年生だ。決して温かい環境ではない。木枯らしは容赦なく吹き付けて来るし、気温は外気と殆ど変わりがない。そんな環境で、一心不乱に読書をしていると言う人間を「普通の子」の視点で見れば、彼女は相当変わっている部類に思える。


「寒くありませんか?」


 だから、気になって声を掛けてしまった。


 彼女は一瞬びくんと身を震わせて、強張った表情で僕を見た。眼鏡の奥の瞳は、僕を外敵でも見るかのように怯えながら射竦めている。その瞬間、彼女の手元から本が滑り落ちてピロティの石畳を叩き付けた。ほぼ吹き曝しとは言え薄いガラスくらいは嵌っている空間だから、石畳を打った音は、ぱぁんと一際響き渡った。


「すみません、驚かせてしまって。こんなところで外套も羽織らずに読書とは、あまりお身体に良くないと思いまして、つい」


 表情が硬直したままの彼女は、足元に落ちた本のことに気付いてはいただろうが、なぜか体はぴくとも動かない様子だった。落ちた本はちょうど表紙をこちらに向けた格好で、無様に仰向けで倒れている。その表紙には「ひるべると/幾何學原理」と記されており、この本が紙の焼け具合に伴ってかなりの年代物であることを雄弁に物語っている。


「幾何学、お好きなんですね」


 石畳に転がった書籍を摘み上げて彼女に手渡すと、幾分強張った表情が緩む。まぁ、表紙に幾何学と書いてあるのだから、そのくらいは誰だってわかるだろう。少なくとも、常軌を逸した論理の飛躍は、そこには存在しない。


「しかし、いきなりヒルベルトから入るのは、少し敷居が高いように思いますし、今はもっとこなれた現代語に訳された書籍もある。なぜ、大正二年に初版が発行された、林博士の訳本を?」


 当然、そこには何らかの理由があるはずだ。


 ダフィット・ヒルベルトの著書である、今は概ね「幾何学基礎論」と訳されることのほうが多いその本は、言うまでもなくヒルベルトによって齎されたユークリッド幾何学の公理主義的な研究の成果物に他ならない。


 それまでユークリッド幾何学、つまりエウクレイデスの「原論」に示された〝公準〟と呼ばれる、現代に於いては公理とほぼ等しい概念とされた内容は、長きに亙って正当であるとされていたが、その正当性、あるいは厳密性に対して一石を投じたのは、平行線公準の問題だった。そのことが、いわゆる「非ユークリッド幾何学」と呼ばれる幾何学の多様性を示して見せたのは言わずもがなであるが、具体的な点と線の概念を抽象的な公理によって表現することで厳密性を高めたヒルベルトの方法論は、その厳密性こそ評価されたとしても実のところはエウクレイデスの焼き直しだと言う論評もできる。


「……よくわからないんですけど、綺麗だなぁ、って思ったんです」

「綺麗? それはヒルベルトの幾何学基礎論がですか? それとも林博士の訳文が?」

「どちらとも言えません。ただ、幾何学って綺麗だな、って。それが愛おしくて」


 はぁ、と僕は何とも言えない返事をした。


 確かに幾何学と言う学問は、傍目に見れば美しいと言う側面を否定できない。具体性の塊から、それらが持つ「性質」によって一般に公理系として成立し得る体系を導き出すことを成立せしめたことは、形式科学の立場から言えば確かに美しいだろう。


 しかし、彼女の言う「美しい」は、そうした論理性のエレガントさとも違った、少し別の地平からの測地線を描いているように思えた。その証拠に、彼女は最初に綺麗だと言ったときに、本に目を落とすわけでも僕に視線を投げるでもなく、僕には見えていない何かもっとも茫漠な何かを見ているように思えたからだ。


「……特別級の生徒さんって、本当に居たんですね。私、初めて会いました」


 普通級と特別級を区分する証拠はただ一つ、僕らにはクラス章と呼ばれるバッジが支給されないことだ。それ以外は、ブレザーの襟に縫い付けられる白線の本数も、所属を表している校章も等しく同じであり、事実上どのクラスにも在籍していない、と言う事実だけが僕らを「特別級」と言う論理的なクラスの一員にする。


 だが、多くの生徒はその事実を知っていても、そこまで冷静に人間を観察しない。だから見分ける手段を持たないのと同じである。彼女は明確にそのことを区分した。それだけでも彼女は、ちょっと人より勉強ができるだけの〝普通の子〟とは、言い難い気がした。それは当初希望でも有ったが、今は残念ながら憂虞ゆうぐに等しい。


「私、この本に書かれていることをすぐには理解できていないんです。貴方の指摘通り、私にはまだ敷居が高いのかも知れない。でも、私はこの言葉の上で幾何学と言う世界を見たいんです。現代語の口語訳ではない、嘗ての文語文のコンテキストの上で学びたい」


 ファーストコンタクトの強張った表情はどこかへと霧散し、彼女はいま晴れ晴れとした笑顔で恐ろしいことを口にしている。何というか、理屈に適っていない。ここで言う理屈と言うものが、学習と言う行為を示す曲線の勾配をより平坦にすることが合理的だとする普遍的なバイアスを軽々と超越し、その向こう側に幾何学を見ていることに、僕が、恐らくは霜田葉月が、野宮和子が恐怖を感じずにおれようか。


「……名前がまだでしたね。向島むこうじま美冬みと、三年A組です」


 彼女は僕に向かって、スッと手を差し伸べる。握手を求められていると解釈して良いのだろうか。


「ああ、どうも……所属上は一年B組の――――」


 そこまで言い掛けたところで、彼女は僕の前から突然姿を消した。まるでそこには、それまで僕以外、誰も居なかったように。彼女に差し伸べたつもりの右手を、掴んでくれる対象は、僕の目の前から忽然と喪われたのである。


「……幽霊?」


 有り得ないことを口走ったと言う事実を、僕は猛烈に恥じている。

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非可換環間ドライヴラヴ 紗水あうら @samizaura

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