第4話
デッキはすごい風だった。屋内にいるとかなりスムーズに進んでいると思われた船は、波を果敢に切り裂き、ざぶざぶと飛沫をあげながら、進んでいく。風に押されて、光が波に落ちてしまわないか心配だが、彼は意外と平気そうだった。眩しそうに眼を細めている。
「これが、海なんだ」
「なんていうか、寒そうな色だよね。いつもそう思う」
久しぶりに大きい声を出した。そうしないと、エンジンの音にかき消されてしまう。
「うん。でも、この下でたくさんの命が、生きているんでしょう。すごいよね」
「そんな、大げさな」
光は柔らかく笑った。
「大げさじゃないよ。生きているってすごいことだ。栄養を取り込んで、自家発電して、ひとつひとつが光っている。昔はみんな海の中にいたんでしょう?だったら、人間だって植物だって海から出てきたんだ。だから、ここに来たのは初めてなのに、懐かしい気がするのかな」
光は欄干に腕をのせ、その上に顔をのせた。波の飛沫が顔にかかる。風に煽られた髪の間から、額に陽光が差している。
「どうしても海に来てみたかったんだ。海の生き物を見て、波の音を聞いてみたかった。いつも、夏休み前になると、みんなが海水浴に行く話をしていて、僕も来てみたかったんだよ」
そのまま目を閉じてしまう。あんまり端にいると危ない気がしたし、かといって欄干を離してもバランスを失って危ない気がした。
「光、危ないよ。中に戻ろう」
「綾彦。僕ね、海の中で、咲いてみたかったんだよ」
その声は、ささやくようだったのに、なぜかちゃんと僕の耳に届いた。
「いいと思わない?海底に根を張って、珊瑚や海藻と並んで花を咲かすんだ。いつか僕みたいな仲間が次々できたりして。そんなこと想像すると、楽しかった。動けなくなる前にどうしても海に行ってみたくて、結局辿りつけなくて元居た場所に戻って、その時初めて綾彦に会った。それまでは子供がきらいだったんだよ。だって好き勝手枝を折るし、花を散らすために幹を蹴ったりする。僕の病気もそれが原因だったかもしれない。でも君は優しかったね。小さい時から君は優しいまま」
歳を重ねるごとに、薄々感じていた。光は人間ではないのかもしれないと。それでも、彼が放課後、会いに来てくれるとほっとした。学校生活で何一つうまくできない僕が、生きていてもいいと、許される気がした。
彼は遠い所へ行くといった。もう通学路を、一緒に歩くことはない。もしかしたら一生会えないのかもしれない。
「今度はほんとにほんとに時間切れ。あの時からもう一度海に来るために、ずっと力を蓄えてきたけど、他に新しい夢ができたんだ」
手を出して、と言われても、僕は欄干から手を離さなかった。そしてずっと下を向いていた。手を離したら落ちそうだったし、何より泣いていることに気づかれたくなかった。でも彼にはばればれだったようで、困ったように笑っていた。
「綾彦、手を出して」
再度そういわれて、やっとのことで欄干から手を離す。流れるままになっていた涙と洟が顎から滴り落ちていく。両手を差し出すと、彼も両手で僕の掌を握った。
「僕はずっと君の傍にいるよ。願わくは、君もどうか僕のことを忘れないで」
僕は何度も頷いた。何も言えなかったけど、手にぎゅっと力を込めた。それだけで彼は、わかってくれると信じていた。顔を上げて、僕もちゃんとまっすぐ、彼を見つめた。彼は柔らかく眩しい笑顔を浮かべて、言った。
「君に幸運を」
風が光った。透明に、きらりと。
僕の両手を包んでいた彼の掌は無数の花びらに変わり、空高く巻き上げられていく。花びらは遥か上空で乱反射するように舞い、不規則な風にのって、海に、船に、僕に、落ちてくる。僕はデッキに座り込んだ。薄く色のついた花びらを浴びながら。ざぶん、ざぶんと、波のリズムが、花の降りしきるデッキに響いていた。
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