122.悪夢の色は緑色。
顎を引き戻しながら裁を背に置くように踏み出して、正中線に『一つ頭のケルベロス』を構えた。裁も私に気取ったのか、張り詰めた表情で周囲に目を凝らす。だが、ほんの数分前まで県の
互いの呼吸音が転がる。空気は妙に淀んでいて、風が無いだけなのか、依然閉じ込められているからなのか分からない。
どこから来る? 遮蔽物が失せた今、腐肉の目を躱すのは容易じゃない。待ってないでもう一度、『一つ頭のケルベロス』を打ち込むか? いや、裁が心配だ。ああも疲弊していては上手く動けるか分からない。先と同じ出来で囮を作るのも困難だろう。私だって再び同じ勢いで『一つ頭のケルベロス』を浴びれば、もう常時のようには戦えない。魔力の消費も無視出来ない。もう一度振るうのなら、どこにいるのか正確に把握してからでないと。
強烈な眩しさが刺さるように目に飛び込んだ。堪らず強張って瞼を閉じる。
「うっ!?」
「いった!?」
裁の悲痛な声も上がった。悪魔より鋭敏な怪物の知覚が仇になったか? 目を瞑る直前の景色が瞼に焼き付く。闇に沈んで静まり返っていた平原が、突然緑の光線に照らされ浮き上がっていた。
光線の色に見覚えがある。カクタスグリーンだ。劇場支配人の悪魔が、都心部を囲う際に落としたあの瓶が放っていたのと同じ。瓶はまだ壊れていなかったのだ。渾身の悪魔
正面方向、地表を覆う瓦礫が、大きく持ち上がる音が鳴る。
目はまだ光にやられて使えない。
蹴散らした瓦礫が粉塵を吐くのが喉のいがらっぽさで分かって、前方から押し寄せる物体が空を裂くのを耳が拾った。
背に冷や汗が滲む。まだぼやけている目を凝らした。だらだらと輪郭を取り戻していくカクタスグリーンの視界に紛れるように、緑の津波が眼前に迫る。
咄嗟に地を掴むように尾と両足で踏ん張り、銜える剣を左へ払った。斬撃を浴びた津波は、墨のような魔術に呑まれて飛び散る。
それを見送る頃に、漸く視力が回復した。突然眩しさに包まれた平原は暗視装置の映像みたいに、あらゆるものがカクタスグリーンの濃淡で表現されている。戦争映画のワンシーンに迷い込んだようで現実感が無い。
津波の出所を探ろうと正面に目をやった。ガマ腫のようなぷよぷよした質感を思わせる裂傷だらけのシート状の何らかが、遥か向こうからこちらに向けて広がり地を覆っている。
気味の悪さに絶句した。津波と思って斬ったのはこいつだったのか? シートの先端に出来た切断面からは同じ色の液体を流していて、その切り口の形状からこいつを斬ったのは、今し方振るった『一つ頭のケルベロス』だと確信する。
何なんだこれは。不気味な姿に悪心を覚えながら目を凝らす。するとシートは、切断面から液体が流れるのを嫌がるように身を捩り、切断面付近をトカゲの尻尾みたいに離してしまった。自ら切り落とした事により作った新たな傷は、ウィンナーの両端みたいに肉が絞られ閉じていく。
視線がある一点から動かせなくなった。切断面から溢れた液体の中で、ピンポン玉ぐらいの球体が虫卵みたいに犇めいている。それぞれに浮き上がる一つの円状の模様があちこちに向いていた。その一つと目が合う。球体らが何を模しているのか分かって、寒気に腰から項へ背骨を舐められる。人間の眼球だ。
「実に素晴らしい一撃だった! お見逸れしたよ!」
二度と聞く事の無い筈だった声が鳴り渡る。
苛立ちに歯噛みしながら辺りを見た。
色覚をカクタスグリーンに潰され判断が遅れたのだ。ぐったりと動かなくなったあの異様なシート状の物体は、あの忌々しい腐肉の魔法じゃないか。
今頃その正体を掴んだ腐肉は、瓦礫の平原を埋め尽くすような規模ですぐ足元まで伸びている。都心部を跡形も無く破壊した、『一つ頭のケルベロス』を受けた直後と思えない。
躱したって言うのか? 速度調整は悪魔を超える知覚を持つ裁に任せたんだから、逃げ道なんて無い筈なのに。
「いや、間一髪だった! こいつらを地中に戻して一旦瓶の外まで逃がさなければ、流石に俺も疲弊していたよ! これだけの規模の魔法をもう一度使えと迫られるのは、悪魔と言えども笑えないからな!」
響き続ける楽しげな声で我に返り、腐肉から離した目で声の出所を探す。
首を巡らせると腐肉の海の真ん中辺りが、型で抜かれたように穴が開いていた。瓦礫が剝き出しになったそこで、劇場支配人の悪魔が立っている。五体満足で、血の一滴も流さず悠然と。
……一旦外に逃がしたと言っていたという事は、瓶がその姿を保っているように腐肉の魔法も、鉄村の『暴君の庭』を受け付けないのか。
裁が息を呑んだのをコヨーテの耳が拾った。
振り向くと視力を取り戻した裁が、劇場支配人の悪魔に絶句している。時が止まったように見開かれたまま動かない目が、眼窩から零れそうだった。
暗転を仄めかすように、瓶はオーボエのような音を上げて唸り出す。
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