第20話 語族と呼ばれるもの

 四限目の「英語コミュニケーションⅡ」の時間が終わって、昼食休憩の時間になった。


 教室の黒板の横には、「黙食」と大きく貼り紙されている。


 十数年前のコロナの流行以来、多人数での食事中の会話はタブー視され、それは今に至るまで続いている。


 ユキは黙々と一人弁当を食べ終わると、とうに食べ終わったのか自分の席でカバーをかけた文庫本を読んでいるソラに話しかけた。


「ねえ、ソラ君。考えてみれば、言葉って不思議なものだと思わない?」


 ユキは時々、それを聞いた相手がどのように思うかということをあまり考えずに、いきなり思いついたことを言う。


「何が?」


 しかし、ソラはもう慣れたもので、ユキが不意に何か言いだしても、まずビックリすることはない。


「何がって、たとえば日本語と英語だと、同じ内容を言ってても、声に出すと全然違うでしょ。例えば、『こんんちは』と『ハロー』、『犬』と『ドッグ』て全然、発音違うやん」


「なるほど」


と、今もソラは落ち着き払ったものだ。ユキは続ける。


「なぜ、人類の言語て、こんなに違うのかなぁ? あのさぁ、たとえば出アフリカの頃に、こんなに人類の言語が違っていたとは思えないよね?」


 平均的な男子高校生が昼休みに女の子からいきなりこんな言葉を投げられたら、普通はすぐに打ち返せないだろう。


「また、ユキちゃん、面白いことを言い出したね」


 でも、ソラは不意に投げられるユキの言葉を、こんなふうに結構適当に打ち返してくれる。


 でも、そんなソラの配慮などユキは一切気にしていない。


「そう? 世界中の言語が一つだったら、人間の意思が通じやすくていいじゃないの」


 そう言われたソラは、ちょっと考えた顔をしてから、喋りだした。


「じゃあ、ユキちゃん、『語族』って言葉知ってる?」


「語族?……ん~、聞いたことはあるよ。でも、詳しくは知らない」


「語族っていうのは、特徴のよく似た言語をグループでくくったものだよ。○○語族って言い方、聞いたことない?」


「あっ、あ~、印欧語族って、あったっけ?」


「おっ、いきなり、大物が出てきたね。そうそう、そういうやつだよ。ちなみに、印欧語族、インド‐ヨーロッパ語族っていうのは大きな語族だから、ヨーロッパの方の有名な言語は大体このグループに入るよ」


「英語とかフランス語とかドイツ語とかスペイン語とか、だよね?」


「そうそう、その辺、全部……他には?」


「え~と、セム‐ハム語族って、あったっけ?」


「ユキちゃん、その呼び方は今、しないんだよ」


「えっ、そうなの? 確か古い地図帳を見た時に、そんなことが書いてあった気がしたんだよね~」


「今はね、アフロ‐アジア語族って呼ぶんだよ。アラビア語とかヘブライ語ね……他には?」


「ん~、わからない」


「アルタイ語族とか、シナ‐チベット語族とか、まあ、世界中の言語はそうやってグループ分けできるんだ」


「でもさぁ、インド‐ヨーロッパ語族って、すごく大きな、というか雑な分類じゃない? そもそもインドとヨーロッパって、かなり離れてるし。そんな遠い場所同士の言語がどうして似てるって判断できるの?」


「遊牧民なら結構遠くまで移動出来るでしょ。距離が離れていても言葉が似てるということはあるんだよ。それをどう判断するかというとね、昔からある物や人体を指す単語を比較するんだって。そういう基本的な単語は形が変化しにくいそうなんだよ」


「それが似てたら、元は同じ言葉って判断するわけか。なるほど、よく考えたわね」


「たとえば、ポーランドのヴィスワ川、これはもちろんポーランド語だけど、それと古代インドのサンスクリットで『水』を表す単語『ビサム』は、語源的には同じものだと推定されているんだよ」


「へ~っ、ポーランド語とサンスクリット? すご~い!」


 さすがにユキはびっくりして声を上げた。


「で、これらの似通った言語の元になった言語のことを『祖語』と呼ぶ。インド‐ヨーロッパ語族に属する言語の祖語『インド‐ヨーロッパ祖語』というのを言語学者が理論的に考え出したんだ。


「理論的に? 今、その祖語を喋ってる人はいないわけ?」


「これ、先史時代の話なんだよ」


と、ソラは笑った。


「先史時代だからさ、文字が無いでしょ。だから、言葉はすべて口伝によって子孫へ受け継がれるだけで、記録は一切残ってないんだよ」


「そんなの、どうやって再現するの?」


「祖語から派生した言語をたぐって推定するしかないよ」


 言語学者ってすごいなぁ、とユキは正直に思った。


 だいたい、高校生がイメージする言語についての勉強とは、現代のある言語を流暢に読み書き会話することだ。これは語学だ。


 でも、本来の意味での言語学とは、こういった実用を目的とする語学とは別物で(もちろん、語学ができることが前提だが)、言語そのものの解明を目的とする学問なのである。


 ソラは続けた。


「インド‐ヨーロッパ語族の場合、共通の単語として『ブナの木』とか『鮭の上る川』っていうのが想定されてるんだ。それで、そういう環境が揃っている場所こそが、インド‐ヨーロッパ祖語を喋っていた人たちの故郷だと考えられたんだよ」


「それで、そこはどこなの?」


「今から六〇〇〇年前の黒海東北岸地方からコーカサス山脈にかけての一帯とする考えが有力だよ。クルガン仮説っていうんだ」


「そこにいた人たちは、いつ頃、なぜ、移動したのかしら?」


「気候変動だよ。五〇〇〇年前の地球はそれ以前より寒冷化したんだ」


「五〇〇〇年前? 最終氷期は一万年前に終わっているはずよね?」


「ユキちゃん、地球の気候は常に微妙に変動し続けてるんだよ。今から七五〇〇年前から五〇〇〇年前が完新世の最温暖期、それが五〇〇〇年前から寒冷期に入ったとされているんだ」


「そうなの?」


「その影響で、コーカサス地方にいた遊牧民は、暖かい土地を目指して移動を始めたんだ。そうすると、どの方角へ行くと思う?」


「え~と、わざわざ北へは行かないよね。寒いから」


「そうだね」


「じゃあ、東?」


「違うね。ユーラシア大陸は同緯度なら東に行くほど気温は低いんだよ。なぜだかわかる?」


「なぜ?」


「地理の時間に習ったケッペンの気候区分を思い出してよ。コーカサスの東、東北アジアは亜寒帯Dw、これに対して西のヨーロッパはほぼ同緯度なのに温帯の西岸海洋性気候Cfbでしょ?」


「あっ、そうだ、メキシコ湾流だ!」


 ユキは思いだして声を上げた。


「その通りだよ。ヨーロッパは夏は涼しく、冬もメキシコ湾流という暖流と偏西風によって暖かい空気が送られてくるため、大陸東岸よりは緯度の割に寒くないんだ」


「わかったわ。だからコーカサスにいた人々は暖かい土地、すなわち南と西を目指して移動していったのね」


「そして、インド‐ヨーロッパ祖語はインドからヨーロッパへと広がっていき、それぞれの土地で次第に変化していった、と」


「その結果が、英語だったりサンスクリットだったりするのね」


「今となってはさ、世界中の言語を一つにするというのは難しいと思うよ。言語が背負っている気候風土も含めた文化がそれぞれ違うから……仮に地球上の文化がどこにいようが全く同じになったら、一つの言語で違和感を感ぜずに済むだろうけど、それって可能なのかなぁ? っていうか、それが人類社会にとって本当にいいことなのかなぁ?」


 そこで、五限目の授業開始五分前を知らせる予鈴のチャイムが鳴った。


「なんか最近、星野と山口は難しい話を喋ってることがあるよなぁ」


 少し離れたところで聞くともなく聞いていた北川たちが、ユキとソラに話しかけてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る