【9】

「おいおい、二人とも。そのやり取りに女性のお客さん方は 気が気じゃないんじゃないか?」

カウンターの奥から、がっちりした体格で三十代半ばくらいの男性バーテンダーが笑いながら話し掛けた。この店のオーナー・篠原である。

「ははは。ここは別にそういう類の店ではなかったはずですよ。でも、確かに僕に会いに来て下さるお客様を悲しませるのは良くないですよねぇ」

少々大げさな身振り手振りで悲しさを表現しながら、伊織は甘ったるく言った。

隣にいた樹はいつもの流れに楽しそうに笑い、そしてカウンターを離れて裏口から外に出た。

休憩、というわけではなかったが、時々外の空気を吸いに通用口から外に出るのが彼の習慣だった。

「ふぅ……」

樹はドアを開けて外に出た。そして少し伸びをした。

ドアの向こうには雑然とした景色。

雑居ビルの裏側というのは、実に夢がない。

ドアが開いた途端に現実に逆戻りする。

細い通路の向こうで輝くネオンの光が見せる眩しい世界の欠片。

それはまるで虚構のようにも思え、ギラギラと自己を主張していた。

世の中とかけ離れた、ゆったりした時間の流れから一気に現実を見る感覚にはなるのだが、時々はそういうこともきっと必要なのだ。

樹は、先ほどの常連カップルが結婚に向かって歩き始めた瞬間に立ち会い、自分の作ったカクテルがその想い出の一端を担うという大役を務めたことを光栄に思いながら満足げに微笑んだ。

特に、先ほど作ったホワイトレディは駆け出しの頃に何度も何度も練習をした、彼にとっても思い入れのあるカクテルだった。

本格的にバーに勤め出してから約二年の間に色んな客に出会ってきたが、こういう瞬間に立ち会えることはやはり嬉しいものである。

(今日は良い日だな)

ほんの一、二分の間に、樹は今までのことを振り返っていた。

そして、そろそろ店に戻ろうかと身を翻したその時である。

「うう……ううう……」

 樹は、はたと動きを止めた。どこからかうめき声のようなものが聞こえた気がする。

彼は辺りをきょろきょろ見渡してみた。

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