わたしの恋

あべせい

わたしの恋



「名前は?」

「カワキタセツコ」

「三本川に南北の北、セツコは、節分の節に子供の子でいいンだな」

「はい」

 わたしは、何度も面接を受けてきたが、こんな面接は初めてだった。

「住所は?」

「履歴書を書いてきましたが……」

「それはあとでいい。汚い字は読むのは疲れる。早く住所を言って……」

 なるほど、男がA4用紙に走らせるボールペンの文字は、惚れ惚れするほど達筆だ。

 わたしは、区と町名、アパートの号室まで正直に言った。訪ねて来られると困るから、これまでアパートの部屋番号はウソをついてきた。それで支障はなかった。手紙が来ることもない。

「年は二十三だね。娘の一つ上か」

「喫茶室さらい」の店内。横長のホールにテーブル席が6卓、カウンター席が5脚ある。

 時刻は午後3時。入り口のドアを入って右隅の二人掛けテーブルに、わたしはマスターと自称する五十代の男と向き合っている。

「ここからだと……」

「各停で二駅です」

 この店から最寄りの私鉄駅まで8分はかかる。電車に乗って5分、下車してアパートまで15分ほどだ。

「それなら、歩いても来れるね」

「道がわかりません」

「教えてあげるよ」

 男はそう言って、ニヤッと笑った。わたしにはそう見えた。嫌そうな反応をしたのだろう。

「心配するな。住所が本当かどうか、調べるつもりはないよ」

 わたしは年配の男に何度も言い寄られたことがある。その心配をしたのだが……。

 実家が山形であること、両親は健在、兄妹が六人いることなどをしゃべり終えると、

「いつから、できる?」

「いつでもいいです」

「そう、ならこれからやってもらう」

 わたしは、胸当てのついたピンク色のエプロンを渡された。

 自分の手荷物は「倉庫」と表示のある三分の一畳ほどの小部屋に置いた。

「ミコちゃん、ちょっと」

 マスターに呼ばれ、わたしと似た年頃の女性がキッチンの中から現れた。

 マスターと面接中、わたしをチラチラと見ていた娘だ。

「きょうから一緒に働いてもらう川北セツ子さんだ。彼女は、水沢ミコ。もう3年になるかな」

「マスター、まだ2年ですよ」

「そうか。とにかくミコちゃんから、いろいろ聞いてやって欲しい。おれは、ちょっと銀行に行ってくるから」

 マスターはそう言って店を出て行った。


 わたしが「さらい」での面接を思い立ったのは、カレの勧めだった。

 カレは、運送会社の跡取り息子。父親が社長していて、いまは4トントラックを乗り回している。

 彼は前にわたしが勤めていた喫茶店のお客だった。「さらい」の最寄り駅から6つ先、都内有数の繁華街I駅から徒歩数分の、テーブルが50卓ほどある大きな店だ。

 わたしは初めカレのことは何とも思っていなかった。週に2、3度来る常連さんに過ぎなかったが、早番の帰り、声を掛けられた。

 それまでカレは店で友達とコーヒーを飲んでいて、わたしがカレのテーブルのそばを通ったとき、「あがりは何時?」と聞いてきたので、正直に答えた。

 それがよかったのか、悪かったのか。カレに悪そうな印象がなかったからだが、いつもなら、

「まだ、決めてないの。わたし、気分屋だから」

 と答えて、はぐらかすのに。

「ごはん、食べていかない?」

 と言われ、わたしは、お茶だけなら、と応じた。アパートに帰っても用事はなかったが、素性のわからない男と最初から食事をするほど、わたしは軽薄じゃない。

 1時間ほど話したかなァ。カレの話はつまらなくなかったけれど、さしておもしろいとも思わなかった。ただ、信用してもいい男だと思った。

 それから、デートを4回した。居酒屋、ハブ、カラオケ。4度目にホテルに行って、わたしのカレになった。

 顔はふつう。おとなしそう、やさしそうな顔だ。

 カレは、わたしに店を替えたほうがいいと言った。わたしがI近辺で働くことを問題にしていた。カレのような客が現れると困るというわけだ。露骨にそうは言わなかったが、「Iは風紀がよくない」という言い方をした。

 それで、「さらい」を紹介してくれた。カレがトラックで走る道路沿いで、数度だが入ったことがある、と。小さい店だから、忙しくないと言ったが、わたしは忙しいのは嫌いではない。暇をもてあますよりはいい。

「さらい」の店の前に来ると、ウインドウに張り紙があった。

 A3の紙に、太いサインペンで、

「ウエイトレス、急募。年齢不問、面談即決。キッチンできる人、尚可」

 と書いてあった。達筆だったから、マスターの手書きだったのだろう。

 張り紙は1年以上張り続けてあるのか、干乾びてセピア色になっていた。

 わたしは高校中退で上京し、最初は高校の先輩のつてで居酒屋に勤めた。しかし、同僚に嫌な同郷の女がいて、すぐにやめて喫茶店に移った。

 ウエイトレス歴は、5年。男のキッチン係が手薄のときは、カウンターの中に入り、コーヒーを点てたり、パフェを作ることも覚えた。

「わたし、ミコ。セッちゃんと呼ぶね」

「はい、ミコちゃん」

「わたし、義務教育しか受けてないから、難しいことは教えてね」

 わたしも似たようなものだ。そんなことより、初対面の人間に自分の弱点をさらけ出すのは、相手に好意を抱いたのか、信頼できそうと感じている証しだ、とカレが教えてくれたことがある。わたしは、心の中で、ミコに二重丸、いや三重丸を付けた。

 

「さらい」はペルシャ語で、「家」という意味だそうだ。マスターが教えてくれた。

 わたしのさらい生活は順調に進んだ。順調すぎるほど。

 さらいの営業時間はあさ8時から午後7時まで。ウエイトレスはわたしとミコ、それに遅番専門のオバさんが一人いる。あとで、マスターとわけありだとわかったが。

 客は朝とランチが最も多く、近所で働く通勤労働者がモーニングサービスや昼食に利用するのだ。

 このため、マスターが午前中キッチンに入り、わたしとミコがホールにかかりきる。午後は1時になるとマスターは午後4時まで休憩に入る。

 わたしとミコはその4時で基本的に上がりだが、たまに忙しいとどちらかが遅番女性が来る午後5時まで残業する。この店は朝とランチ以外は、キッチンもホールも一人でこなせる程度しか、客は来ない。

 とにかく、午後1時を過ぎるとヒマだ。客は数名と思えばいい。わたしとミコは、ランチに出しているスパゲティかカレー、チャーハンのいずれかを昼食として代わる代わるに自分で作って食べる。ドリンクはなんでも飲み放題。

 ランチは客の要望で始めたらしく、元々マスターは乗り気ではなかった。だから、カレーは缶詰、スパゲティとチャーハンは冷凍食品を使っている。ただし、3品とも温泉玉子と季節の生フルーツを添える。夏はメロンかイチゴ、秋は柿か梨、冬から春はオレンジ、みかん、レモンなどの柑橘類だ。

 わたしはおしゃべりのほうではないが、ミコと一緒だとついおしゃべりをしてしまう。彼女は話し上手で聞き上手なのだ。マスクもかわいい。タレントで言うと、AKBのエー……忘れたッ。とにかく、目が大きくクルンとしていて、鼻筋が通っている。

 彼女の話題は、カレ。

 週に2、3度通ってくる。仕事は理容師。いまや主流の10分カットの店で、あちこち渡り歩いているらしい。

 ミコは、

「もう別れたつもりなンだけれど、カレ、踏ん切りがつけられないの。元々優柔不断で……」

「何が気に入らないの?」

「全部よ。3ヵ月同棲したけれど、キッタないのよ。下着も靴下も、言わないととっかえないし、床にゴミが落ちてても拾おうとしない。それだけだったら、まだなんとか我慢できる。ギャンブル。競馬に入れ込んでいて……」

 わたしのカレは、ギャンブル依存ということはなかった。「なかった」は、正しい。もう、過去のひとだから。

 ミコはまだ引きずっているようだけれど、わたしはこの店の面接を受ける前に、カレとひと悶着あった。

 カレは父親の勧めで見合いをして、気に入ったらしく、結婚の準備を進めている。いまどき、見合い!? 親の勧め!? やってらンない。そんな男とは思わなかった。

 前のお店をやめて、4日後だったか、さらいを紹介してもらった翌日、急に会いたい、ってメールしてきて、いつも電話なのに、いやな感じがしたら、案の定、

「結婚することになった」

 だって。わたしとは、いままで通りつきあいたいッ! ふざけんじゃないわよ。女をなんだと思ってンの! わたしは、喫茶店で、思い切り、彼のほっぺたをひっぱたいてやった。周りの客はみんな見たわ。そんなのかまってられるかッ。

 ミコのカレとわたしのカレの共通点は優柔不断。大事なことが自分では決められない、ウスノロよ。

 わたしはあれ以来カレと会わなくなっているから、もう3ヵ月以上になる。

 たった一つだけ、ひっかかっていることがある。わたしのアパートの合いカギ。それを返してもらわなければならない。カギさえ返してもらえば、もう終わり。ジィ、エンドなンだから……。

「セッちゃんのカレは、もう来ないの?」

「もう話したでしょ。来るわけないよ。来たら、塩撒いて追っ払うだけ……アッ、来た。いらっしゃいませ」

 出入口のドアを背にしていたミコをおいて、わたしはすぐにキッチンに入り、コーヒーポットから一杯分を小鍋に注ぎ、ガス台にかける。

「びっくりしたじゃない。セッちゃんのカレだと思ったのに。あいつ、また……」

 ミコはカウンター越しに、わたしにささやく。

 ミコのカレは、いつもカウンター席の端っこにぼつんと腰かけ、「ホット」とつぶやく。

 カレの表情で、その日の収穫がわかる。

 きょうも外れだったのだ。

 客は二人一組が帰ったばかりで、カレひとり。

 コーヒーをカップに注ぎセットしたが、ミコが動こうとしないので、わたしがカレの前にもっていく。

「お待ちどうさま」 

「あッ、セッちゃん……」

「何でしょうか?」

 わたしは、カウンターに項垂れているカレの顔を覗き込むようにして尋ねた。

「これッ」

 カレが顔をあげると同時に、前のカウンターに茶封筒を置いた。

「この前ここを出たら、セッちゃんに渡して欲しいって、頼まれた」

「なァに?」

 わたしはとぼけてみせたが、内心ピンと来た。

 封筒を手に取る前、上から指で押すと、予想通りの感触が伝わってきた。

「なになに、何よ、セッちゃん」

 ミコが興味深げに寄ってきた。

「カレからの最後のプレゼント」

「あァ、あれね」

 カンの鋭いミコは、わたしから聞いていた話から、すぐに察した。

「あいつ、セッちゃんの元カレなのか。セッちゃんを袖にできるほど、イイ男には見えなかったな」

「そうね。佳樹(よしき)さんのほうが当たりかも」

 佳樹はミコのカレだが、佳樹と自身の元カレを比較しても、もう元カレを選ぶ気持ちはなかった。わたしの中から、カレは完全に消えている。

 ドアが開き、マスターが戻ってきた。

 ランチタイムのあと、いつものように「銀行に行ってくる」と言って出かけたのだが、マスターの「銀行」は、「パチンコ」だ。たまに、「お土産だ」と言って、チョコレートをわたしとミコに差し入れてくれるが、前回、わたしがバカ正直に「チョコは好きじゃない。煙草なら」とパチンコの景品と承知してつぶやいたところ、チョコの土産はピタリとなくなった。煙草はマスターも吸うからだろう。

「二人に話しておくことがある」

 マスターがわたしとミコをテーブル席に腰かけさせた。

「私は明日から朝の仕事ができなくなった。代わりにバイトが来る」

 エッ!? 急すぎるわ。マスターに何があるっていうの。わたしはこのとき、マスターの家庭についてほとんど知っていないことに気が付いた。

「奥さんのお加減がよくないのですか?」

 ミコがそう尋ねた。マスターに奥さまがいたなンて。わたしは勤めて3ヵ月にもなるのに、マスターの家庭には全く無関心だった。

 ミコはよく知っている。

「そうじゃない。こんどは、私自身だ。遺伝だな」

 マスターは哀しい声でそうつぶやいた。

「マスター、らしくないですよ。まだ若いンだから、治りますって」


 翌日。

 マスターに代わる新しいキッチン担当がカウンターの中に入った。

 互いに自己紹介しただけで、昼過ぎまで目いっぱい働き、忙しいランチを乗り切った。

 キッチン担当の彼は、須方蚕二(すがたさんじ)、年齢はわたしより1つ2つ下くらい。見た感じだが。

 仕事はできる。さらいのメニューを熟知していて、マスターの手際に劣らない、速さと見栄えのよさを見せつけた。

「あんた、前はどこにいたの?」

 店内が落ち着き、従業員のリラックスタイムになって、ミコがカウンター内にいる蚕二に尋ねた。

「この店が3店目です。最初は虎ノ門。その次は、Iのジョーカーという……」

「ジョーカー! 知ってる、知ってる。あそこにいたの」

 ミコがうれしそうに身を乗り出す。

 ジョーカーはテーブル数が多いことで知られるI駅前にある大きな喫茶店だ。

 わたしも一度面接を受けようかと店内に入ったが、黒服を着たマスターらしき男の頬に深い切り傷があるのを見つけて、直前でやめた。

「うちのマスターとどこで知り合ったの?」

 と、わたし。

「どこって、この先のクラヤに面接にいったら、ここのマスターがいて……」

 クラヤは、同じ私鉄沿線で、この店の最寄り駅から3駅Iより。ミコの話では、マスターの奥さんの妹が経営する喫茶店だ。

 そこで蚕二がマスターの義妹の面接を受けていて、マスターはしばらくそのようすを見ていたという。

 マスターは蚕二の面接がひと段落したところで、話の輪に入り、近く持病の糖尿で入院する、蚕二をさらいのキッチンに貸してくれないかと話した。

 さらいとくらやのメニューは似ている。そっくりと言ってもいい。義妹はマスターに倣ってメニューを作っていた。

 そこで、蚕二は1週間、くらやでキッチンを務め、その後さらいに出向することになった。

 この業界では、従業員のやりとりは珍しいことではない。珍しくないが、わたしは気になる。

「須方さん。虎ノ門の前はどこにいたの?」

 わたしが尋ねた。

「学生です」

「そうなの」

 と、ミコ。

 でも、わたしは、「やっぱり」だった。能天気な学生に見えたから。

 学生なら、わたしの対象外だ。わたしは高校中退の中卒どまり。大学出になんどもバカにされ、大学出は相手にしないと決めている。

「卒業したンでしょ。どうして就職しなかったの?」

 ミコが好奇心からか、尋ねた。

「どこかに就職して、決められたレールの上を進むのは、つまらないと思ったンです」

 生意気なことを言っている。わたしなんか、高校だけは卒業してやると思っていたのに、父親が借金の保証人になって、実家がなくなりふんだりけったり。

「なんだか、お殿様みたいね。家は何しているの?」

 ミコが尋ねる。わたしも知りたい。別に関心があるからじゃなくて、行く道を決めずにだらだらと生きていける彼のようなこどもが育った環境、ってわたしとどう違うのか。ただの野次馬……。

「サラリーマンです」

 うちは農家。こどもの教育に熱心じゃなかった。わたしが高校に行くのも反対した。

「いいわね。親のお金で大学に行って、就職もせずにバイトしている。親は、なんとも思っていないの?」

 ミコの疑問は当然だ。世間の親は、あれこれこどもに指図するものだと思うからだ。

「うちは両親とも、そういうことでは無頓着です。ぼくは助かっていますが……」

 一組のカップルが来店したので、話はそこで中断した。

「セッちゃん、ねェねェ」

 ミコがカップルにオーダーのアイスコーヒーを出して戻ってくると、わたしを脇に呼んだ。

「どうしたの?」

 ミコがわたしを探るように見つめる。

「わたし、彼にアクション、起こしてもいいかな?」

「彼って?」

 すると、ミコは、背後のキッチンにいる蚕二を、胸の前で指を差す。

「ミコちゃん、あのカレはもういいの?」

「あいつとは、とっくにキレているよ。こんど来たら、出禁にするから」

 わたしはうなずくしかなかった。ミコが蚕二に好意を寄せる気持ちはわかる。しかし、なんで、わたしに断る必要があるのか。わたしは、その点が引っかかった。

 わたしが蚕二とどうにかなるって? 冗談じゃない。わたしは大学出は対象外。高学歴は、プライドばかり高くて、ハダが合わない。合わない、合わないけれど……。

 わたしには、いま、だれもいない……。元カレはわたしを捨てて、親の勧める別の女と結婚する。それでいて、結婚した後も、つきあってくれ、って。バカにするンじゃないよ! わたしをなんだと思ってンだ!

「ウーム、どいつもこいつも」

「どうしたの、セッちゃん」

 ミコが心配そうに尋ねる。

「エッ、わたし、なんか言った?」

 わたしは我を忘れて、唸ったようだ。

「顔が真っ赤よ。調子がよくないンだったら、帰ってもいいよ」

「そうしようかな」

 わたしは、ミコの判断が正しいと思った。別にやきもちを焼いているわけではない。わたしはわたしに腹を立てているだけだ。わたしが帰れば、ミコは蚕二と二人きりになれる。

「須方さんは何時までできるの?」

 と、わたし。

「きょうはまだ決めてないですが、お邪魔になったらあがります」

「だったら、遅番がくるまでやって。わたし、体を休めてから、必要だったら遅番タイムにもう一度入る」

 蚕二はマスターの代わりだから、本来は中抜けして遅番タイムに出直すのだが、きょうは初日だし特別態勢にするのがいいだろう。ミコも賛成した。


 きょうはミコがお休みだ。わたしは昨日休みだった。Iに行き、格安洋品店でワンピースとブラを買った。

 さらいは土日が、客足が少ない。めっきり。だから、わたしとミコの休みは土日か祝日になっている。

 ランチタイムが過ぎ、たわしはふとキッチンの蚕二を見て、彼が休みを一度もとっていないことに気が付いた。

「須方さん、あなた、お休みはいつとるの?」

「エッ」

 思いがけない問いかけだったのか。戸惑っている。

 しかし、蚕二が休みをとらないことには、ミコは彼とデートするにも、夜遅くにしかできない。

「ぼくは、当分休みなしです。マスターが退院すれば、お払い箱だから、いまのうちしっかり稼いでおきます」

 蚕二は、ふだんから考えていることのように淡々と話す。

 それならそれでいい。蚕二は、はっきりした考えをもっている。わたしは、彼が水商売の男にありがちな、いまが楽しければいい、といった無軌道な男でないことに安心した。同時に、職場の同僚としては信頼できると思った。

 この日、遅番のおばさんが休みなので、わたしは彼と閉店まで仕事をした。

 客もなく、ホールの仕事はほとんどない。テーブルを拭き、ゴミを集める。

 しかし、キッチン担当の彼はカウンター内の掃除や翌日の仕込みに忙しい。

「川北さん、あとはやっておきますから。あがってください」

 蚕二がわたしを気遣ってそう言った。わたしはそのように信じた。

 わたしはキッチンのゴミとホールのゴミを一つにまとめると、回収業者が指定する外のゴミボックスまで運ぶため、従業員用の裏口から外に出た。

「セッちゃん、まだいたの」

 ミコだった。かわいい花柄のワンピースを着て、裏口のそばにいた。

「いま帰るところだけど。ミコちゃんは?」

「今夜、カレとデートなの」

 ミコはそう言って、中に入っていく。

 そうか。蚕二はミコとデートがあるので、わたしを先に帰したかった。

 わたしがホールに戻ると、蚕二はまだキッチン内でうろうろしている。

 ミコは椅子に腰かけ、ぼんやり。

 なんだか、いやな空気が流れている。でも、わたしとは関係ないこと。

「お先に失礼します。おつかれさま」

 わたしはエプロンを外して、ミニ倉庫内のホックに吊り下げた。

「セッちゃん!」

「なァに?」

 わたしはミニ倉庫内に置いてあるバッグを手に取ると、能天気にミコの問いかけに応えた。

「蚕二さんに何か言ったのッ!」

 ことばにトゲがある。わたしは、蚕二を見た。彼は困った顔をしている。

「何のこと?」

 二人のいきさつは知らない。ミコが、蚕二とつきあいたいとわたしに言ってから、3週間経っている。

「彼、今夜はひとりでいたい、って言うの」

 それでいいじゃない。そんなときもある。わたしはどう返事していいのか、わからない。

「今夜は3度目のデートなのよ。わたし、楽しみにして……」

 勝負下着、ってわけか。わたしの頭の中を、元カレとの初めての夜がよぎった。あれは4度目のデートだった。

「須方さん、わたし、何かいけないことを言ったのかしら?」

「いいえ。川北さんは、無関係です」

 蚕二は申し訳なさそうに応える。

「そうよね。わたし、約束あるから失礼します」

 わたしは厄介ごとに巻き込まれそうに感じて、そう言った。

「いいわよ。二人して、わたしをコケにして。もう、辞めるからッ!」

 ミコはそう言い捨てると、アッと言う間に店を出て行った。

「すいません。ぼくがいけなかったンです。誘われるままデートして。最初から断ればよかったのだけれど……。傷つけたくないし……」

 それは、やさしさじゃない。この男も優柔不断なのだ。

「ぼくはセツ子さんと話がしたくて……」

 どういうことよ!

「あなた、八百屋で野菜を選んでいるつもり? わたしは当分の間、ひとりでいたいの。お先に……」

 わたしは、そう言うと、店を出た。本当は好きな男性と過ごしたい。そんな男性が現れるのを待っている。しかし、そんなにすぐに代わりは現れない。当たり前だ。

 駅までの道を歩きながら、告白した蚕二に腹が立った。もっともっと時間をかけてから、言って欲しかった。これじゃ、実る恋も実らない。生煮えの出来損ないだ。

 駅のホームで電車を待つ間、明日からミコは来ないのだろうか、とあれこれ考えた。いまごろ、ミコは自宅まで、とぼとぼ歩いているのだろうか。どこかの飲み屋に入っているかも。入院しているマスターに報告しなければならない。

「川北さん!」

 大きな声だ。

 エッ!? だれ? どこ?

 蚕二だ。向かいのホームに立っている。

 彼はわたしとは逆方向の電車に乗る。そこに、わたしたちを遮るように、向かいのホームに電車が入った。

 こんなものだ。

 電車が出て行く。と、空になったホームに彼の姿が……。なんで、乗らなかったのッ……。

「明日も、よろしく。おやすみなさい」

 蚕二が懸命に叫んだ。そこへ、わたしが乗る電車が来た。わたしは中に乗り込むと、反対側のドアに走り寄った。

 ドアのガラス越しに、蚕二に向かって、手を振る。

 彼も手を振り返す。

 わたしは声が届かないのを承知で、

「明日ね。おやすみ」

 と言う。

 彼も何か言っている。口の動きから、「気をつけてください」のようだ。

 だから、わたしは、聞こえないのをいいことに、

「あなたのこと、好きになれるかも」

 と、声に出して言ってみた。

 ひょっとして、これは新しい恋の始まりなのかしら。だとしたら、ちょっと物足りない。

 わたしの恋は、もっと大胆で、激しい、魂を揺さぶられるようなものでないと……。

                     (了)

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わたしの恋 あべせい @abesei

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