#2:唯一の金策

「娼婦、やってみないか」

 唐突に、マスターはそんなことを言った。

 いや。

 あるいは。

 唐突ではなかったのかもしれない。

 俺が仕事の話を振ったときから、マスターにはこの話題のことが頭の片隅にあったのかもしれない。

 いわばここまでの話は前振りで。

 ここからが本題。

 金も知識もない、酒を頼むでもない客ならざる俺にどうしてこのマスターがここまで話を聞いてくれるのか疑問だったが、そういうカラクリか。

「しょ………………」

 娼婦。

「嬢ちゃんにはまだ早い話だったか?」

「いや……」

 娼婦の意味くらい分かる。これでも三十年生きているのだ。

 娼婦。

 すなわち売春婦。

 一夜の恋を男に売って、金を得る仕事。

 体を売る仕事だ。

「なに、簡単だ。一晩男の言いなりになってれば金がザクザク入ってくるんだ」

 人が歩くのくらい簡単なことのように、さらっとマスターは言った。

 何が簡単だ。

 馬鹿にするな。

 馬鹿にするな!

「リバブバル領地内じゃ売春は禁止されてるんだが、そんなの守るやつ誰もいねえ。それにこのレムナスはリバブバルの辺境だからな。まさかここまで憲兵も来ないだろうし」

 そこは全然、問題にしてない。

「嬢ちゃんは見たとこ、若いっつうかちょっと幼すぎる感じはあるな」

 じろじろと、マスターは俺の体をなめまわすように見た。その視線がおぞましくて、思わず身震いして、俺は自分の体を抱き寄せた。

「肉付きもよくねえし。でもそれくらいの女の子が趣味って男は少なくない。女と船は若い方がいいって言うからな! いい稼ぎ頭になるぜ」

 マスターが笑う。

 それにつられて、俺たちの話を聞いていたらしい客たちがつられるように笑った。

「…………………………」

 ふざけてる。

 あまりにも、ふざけている。

「うちの店は二階が娼館になってんだ。見たとこ嬢ちゃん、行く当てもないんだろ? うちで働くなら美味い飯も暖かい寝床もついてくるぜ?」

「…………断るっ!」

 思わず大声を上げた!

「俺は……俺はっ! まだそこまで落ちちゃいない!」

「そうかい」

 怒鳴ったにもかかわらず、マスターはあまり気にしたふうではなかった。

「じゃあ今日のところは帰りな。俺はいつでも待ってるからよ。お嬢ちゃん」

「……二度と来るか」

 後ろへ振り向き、駆け出して酒場を飛び出した。下卑た男たちの笑い声が後ろから追いかけてくるのを、振り払うように。

 そのまま裸足の足が痛むのもかまわず走り抜けて、港に辿り着く。

「はあっ…………はあっ……」

 心臓がバクバクと鳴っている。息が上がって苦しい。目がチカチカして、視界が明るくなったり暗くなったりを繰り返している。

 風が吹くと、全身に掻いた冷や汗が乾いて寒かった。

「くそ……くそがっ!」

 なんなんだあいつは!

 いきなり売春の仕事を斡旋してくるなんて正気の沙汰じゃない!

 どうなってるんだ? これがこの世界では普通のことなのか?

 いくら中世的だからってあり得ないだろ。リバブバルでは売春が禁止されているって言っていたのに、やる気満々じゃないか! 遵法意識もあったもんじゃない。

「…………はあ」

 落ち着け。

 ここで取り乱してどうする。

 必要な情報は手に入れたし、それで今後の方針も立ったから今はそれでよしとしよう。

 まとめると、俺が酒場で依頼されるような仕事を受けるには仕事人としての許可証が必要ということだった。許可証は領地ごとに発行されるもので、この町から行ける、発行してくれる町は北のリバブバルと西のグランエルだ。

 距離はどちらも馬車で一週間ほど。……まあ、そう言われて具体的な距離はまったく想像できないんだが。しかし、リバブバルよりはグランエルの方が現実的な進路のように思われた。グランエルは間にいくつか村があるらしく、その村を経由すれば徒歩でも行ける可能性がある。

 ただ、問題があるとすれば……。

「今の装備では、まったく旅ができない」

 なにせ裸足にワンピースだ。旅にまったく向いていない。装備を整えるためにも、結局金が必要だ。

 その金を得る手段をどうするかというところに問題は帰結する。酒場で仕事を受けられず、売春など論外であることを考えると……。

 そこまで考えて、ふと顔を上げると、港に人が何人かいるのに気づく。さっきはいなかったのだが、時間帯が変わって人が姿を現すようになったらしい。

 大型の木造帆船ばかりが目立ったが、港に停まっている船の中には漁船のような小さい船も目立った。なるほど、漁からの帰りか。夜から朝にかけて海に出て、昼頃の今になって戻ってきたと。

 そういえば、港でも仕事を得られるかもしれないのだったな。可能性は低いが、酒場で仕事を受けられなかった以上、こちらに賭けるしかない。

「す、すみません」

「ああ?」

 漁船で作業をしていた船員の一人に声をかけた。明らかにガラの悪い、日に焼けた男だ。

「なんだ、クソガキ?」

 クソガキと来たか。この男、見たとこ二十代前半くらいだぞ。俺の方が年上なんだけどな……。少女の姿だと、こういうときに舐められる場合があるのか。

「あの、仕事を探してまして……」

「そうか」

「港では船乗りを募集していたという話を聞いて来たんですが」

「お前みたいなガキにできる仕事じゃねえよ」

「で、ですよね……」

 そりゃあ、船乗りだもんなあ。大の男でもなかなか苦労する仕事のはずだ。この体でできるとは思えない。

「失礼しました……」

「いや、待て」

 そう言って、男は俺を引き留めると船から降りた。

「おーい、あんちゃん!」

 そして、大型帆船に向かって声を上げた。

「なんだい!」

 船からひょっこりともう一人の男が顔を出して答えた。

「このガキが仕事を探してるんだってよ」

「ああん? ガキはいらねえよ!」

「よく見ろ。女だ! ちっとばかし乳臭せえが随分上物だぞ!」

「………………!」

 その男たちの会話で、俺が何を求められているのか分かった。

「確かあんちゃん、貨物船の船員が航海中退屈してるって話をしてたよなあ!」

「し、失礼しますっ!」

 腰が引けて、俺はそのまま逃げるように港を飛び出した。後ろから船乗りたちの怒号が聞こえたが気にしている暇もない。追いかけてきているかもしれないと思うと怖くなって、市場の方へ逃げて人ごみに紛れた。

「な、なんなんだ……」

 なんなんだ?

 なんなんだいったい!

 連中、二言目には売春の話をしやがって!

「ふざけるなっ!」

 思わず大声で叫ぶ。

 必要もないのに。

 あるいは、必要なのか。

 さっきの酒場でもそうだった。どうしても大声を出さないと、直面している現実に押しつぶされそうで怖かった。

「俺は、まだ、そこまで落ちちゃいない!」

 同じことを繰り返す。繰り返し言って、自分に言い聞かせる。

 俺はまだ、売春をしなければならないところまで追い込まれていない。

 言い聞かせないと、苦しかった。

「だめだ……」

 叫んだら喉の渇きが酷くなった。空腹もつらい。せめて、水だけは何とか飲まないと。

「水……水……」

 海水、は絶対だめだ。ちくしょう、あんな近くに水があるのに飲めないなんて酷い話だ。

「……そうだ!」

 そこで、ふたつのことを思いつく。

 ひとつは水のありかだ。この町にだって人は住んでいるのだから、生活用水が必要なはず。たぶん、町のどこか――住宅街みたいなところのどこか――に井戸があるはずだ。それを使えば渇きは満たせるかもしれない。

 もうひとつ思いついたのは、今の寄る辺ない俺が頼る先だ。さっきまでは異世界転生という状況に引っ張られて、そういう状況を空想した物語ばかりをヒントにしていた。それがいけなかった。

 俺が今いるのは現実だ。どんなにフィクショナルな状況に陥ろうとも、俺が生きている場所は現実だ。ドラゴヘイムはあからさまにファンタジーな世界だが、それでも現実であることに変わりない。

 だったら、現実的に考えるべきなのだ。

 現実で困ったらどこに頼る? 日本ならまず生活保護を求めに役所に行くだろう。まあ、大抵は自己責任論を振りかざされて門前払いというクソを煮詰めた対応しかされないのだが。

 それで? 役所が駄目ならどうする?

 寺とか神社、教会みたいな宗教施設を頼るだろう。ああいうところはボランティアに積極的なところも多いから、助けを求めればひとまずは助けてくれる可能性がある。

 ならこの世界でも、同じように考えればいい。

 教会だ。こんな中世的世界なら教会があるはずだ。そこを頼れば良かったんだ。

 住宅街の方を目指そう。井戸を探しながら、教会を探すのだ。



 結論から言えば、井戸も教会も見つかった。

 港を離れ町の奥の方へ歩いていくと、住宅が密集する場所にほどなくして辿り着いた。猫の額ほどの広さの土地に、五階建てくらいの石造りの建物がぎっしりと詰まっている。路地は細く曲がりくねっていて、きちんと来た道を覚えていないと迷子になりそうだった。

 そんな住宅街の入口あたりに、教会らしい建物はあった。

 だが、目的は果たせなかった。

 教会は窓という窓が割れていて、扉も破壊されている。完全な廃墟だ。形跡からして、どういうわけか最近になって打ち捨てられたらしい。石壁には焦げ跡などもあり、ひょっとしたら出火もしたのかもしれない。

 ガラスの破片などを踏むと裸足では怪我をするので、遠巻きに見るだけだったが、少なくともこの建物が教会として望まれた機能を果たしていないのは間違いなさそうだった。

「……なんだあれ?」

 教会について気になったのは、教会の屋根に掲げられた金属製の紋章だった。それはドラゴンのあぎとをかたどったような紋章らしく、俺には見えた。黒くすすけているが、どうも本来は白色だったんじゃないかと思わせた。

 あれがこの世界の教会のシンボルなのだろうか。念のため、形をよく覚えておいた方がよさそうだ。

 そんなこんなで教会は空振りに終わったが、井戸の方は無事見つけられた。住宅街の真ん中に広場があり、そこにポツンと井戸が掘られていた。

 ひょっとしたら金を取るということをあるかもしれないと危惧していたが、それは杞憂で済んだ。ただの井戸で、誰でも利用できそうだ。

 とはいえ住宅街の住人が使うことを想定した井戸だろうから、あまり部外者の俺が大っぴらに使うのも悪いだろう。人の目がないかよく確認してから、井戸に近づいた。

 井戸は単純な汲み取り式で、縄をくくられた桶を落とし、それを引っ張って水をくみ上げるタイプのものだった。さっそく水をくみ上げると、桶にキレイな水がなみなみと入っている。

 さて。

 ここからが少し、博打だ。

「……………………」

 井戸の水は澄んでいて、非常にきれいなように見える。だが、これは本当にきれいなのだろうか。

 実は雑菌だらけでしたというオチは勘弁願いたい。

 この世界では水を飲むとき、煮沸するのが一般的なのだろうか。それとも、別に気にすることなくのまま飲んでいいのだろうか。

 少し考える。

 もし煮沸の必要があるものをそのまま飲んでしまったら、腹を下す。下痢になればむしろ体中から水分を奪われてしまう。そうなったら本格的にバタンキューだ。

 だが、水を目の前にして喉の渇きが限界に近い。水が眼前に迫っていて、飲むのをこらえるのは難しい。

 もう少し考える。

 仮に俺の肉体が三十路男性の、つまり元の男の体だったら、まず飲まない。仮にドラゴヘイムの人間が生で飲める水でも、か弱い現代人の俺がその水に堪えられる保証はまったくないからだ。

 しかし、今の俺の肉体はドラゴヘイムの人間を模して作られたという少女のものだ。健康状態もまず良好。もしこの水が安全なら、飲んで差し支えない。

 どうする?

「………………くっ」

 結局、選択肢はないも同然だ。

 俺は水を飲んだ。

「ぷっ…………はあっ!」

 渇いた体に、井戸の冷たい水は清々しい!

 大丈夫だ。

 たぶん、大丈夫だ。

 こんなにきれいな水なのだし、俺の体はドラゴヘイムに順応したものなのだから、きっと大丈夫だ。そう思うしかない。

 どのみち、ここで水を飲まなければ飢えと渇きで倒れる。飲んで倒れるか飲まずに倒れるかなら、前者を選ぶ。

 一時的にでも、渇きから解放されたい。

 俺は水を掬って、桶で二杯分も飲んだ。やたらに喉が渇いていたのはもちろん、水で腹を満たせば空腹もしばらくは紛れるだろうという公算があった。

 これで、もうしばらくは動ける。

「……………………」

 空を見る。

 教会と井戸を探している間に、すっかり時間は過ぎていた。もう空は夕暮れに染まっている。

 今日の宿を決めないといけない。

 風が吹く。ここにまで、潮の匂いがする少しべたついた風が運ばれてくる。

 風に当たると、体がぶるりと震えた。

「……寒いな」

 水を飲んで体が冷えたのもあるが……。元々、気候が少し寒いのだ。

 日が出ているときはあまり気にならなかった。だが、井戸を探して住宅街を歩き、日陰に移動することが多くなると少しずつ、寒さが身に染みるようになってきた。

気温はまだ高いが、風が冷たい。海沿いの町だからなのか、それともそういう季節なのか……。

 ドラゴヘイムの四季がどうなっているのか分からないが、体感からして今は春か秋だろう。過ごしやすいが、さすがにノースリーブのワンピース一枚では肌寒い。その点から言っても、装備の新調は喫緊の課題だった。

 まずは靴かもしれないが……。

 しかしとにもかくにも、今考えなければならないのは今日の寝床だ。一文無しではどこにも泊まれない。誰かの家に泊めてもらうことも考えたが、それはどうにも気が進まなかった。

 酒場に港と、売春をあれだけほのめかされてはな……。

 しかし野宿というのはどうにも……。

 とりあえず、住宅街を出るとしよう。

 そう考えて、来た道を戻るように移動を開始した。

 だが、案の定と言うべきか。

 入り組んだ道を進んでいくうちに、迷子になってしまった。

「……どっちだったっけ?」

 住宅街を出る方向が分からなくなった。いかんせん、道を覚えながら進んだつもりだったが、井戸を探して行きつ戻りつしていたからな。いつの間にか道順もごっちゃになっていて、通ったような通らなかったようなところを延々と歩く羽目になってしまう。

 石造りの建物に個性がまるでないのも問題だ。こうどれものっぺらぼうみたいに無個性だと、何の目印もないから道がさっぱり分からなくなる。

 そんなことをしていると、日がいよいよ沈み始める。暗くなると本当にこの道から抜け出すことができなくなってしまう。心が焦りながら、俺はあちこちと道を進んでいった。

「…………あれは!」

 道を暫くさまよっていると、住宅街の中でも高台になっているところまで来てしまった。だが、そのおかげで全容が明らかになった。高いところから見下ろすと、住宅街の入口にあった教会の尖塔がはっきりと見えた。おかげで、進むべき方向がはっきりする。

「なんとかなりそうだな」

 一息つく。いい加減、今日一日裸足で歩き通したせいで足が痛くてかなわない。どこでもいいから早く休みたかった。幸い方角もはっきりしたことだし、ここで一休みしてからまた歩くことにした。

「よっこいしょ」

 住宅の壁際に体を寄せて、地べたに腰を下ろす。足にかかる圧力が軽くなって、少しだけ楽になった。

 そのとき。

 ふと。

 横を見ると、そこに人が座っているのに気づいた

「う、うわっ!」

 浮浪者かと最初は思った。

 そしてそれは、一面では事実だった。

 ボロボロの薄汚れた布を頭から被った女性が地べたに腰掛けて、壁に背をもたれかけさせていた。

 女性は黒ずんだ肌をしていたが、日に焼けたというより垢で汚れているような印象を受けた。年は三十ぐらいに見える。髪はぼさぼさで、顔も薄汚れている。だが身なりをきちんと整えればそれなりに美しくなるような、そんな気もした。

 そんな女性の存在に、俺はまったく今の今まで気づかなかった。今一段落して、それでようやく目に付いたのだ。

 こんな住宅街にも浮浪者はいるのか。なにぶん、教会や井戸を探しながらの移動だったから、浮浪者にまで注意は払っていなかった。ひょっとすると俺は他の浮浪者のことも目に入ってなかったかもしれない。

 だが、なんか、少し安心した。

 浮浪者がいるという事実に安心した。

 なにせ、俺も似たようなものだからだ。

 仕事の口もない、今日の飯を食うにも困る。寝床なんてもってのほか。これはもう浮浪者、ホームレスだ。

 考えてみればこんな福祉の絶対行き届いていない中世みたいな世界だ。浮浪者なんていて当たり前じゃないか。

 俺と同じような境遇の人がいて、そんな人も何とか生きている。

 それが分かると、少しだけ安心できた。

 大丈夫だ。

 まだ俺は、最悪じゃない。

 ギリギリ、踏みとどまれる。

「…………おい」

 勝手にその浮浪者に共感していると。

 浮浪者の彼女から声をかけられる。

「あ、はい、なんですか?」

 自分勝手に気安くなって、俺はその人に応えた。

「邪魔だ、向こう行きな」

 しかし、彼女は一方的に突き放すようなことを言ってきた。

「え、あ、はあ…………?」

 邪魔、とはどういうことだろう。

 別に俺は、彼女の邪魔になるようなことなんてしていないが。

「あの……」

「ここはあたしのテリトリーだよ! あんたにここでされる筋合いなんてないからね!」

「……商売?」

 どういうことだ? この明らかに浮浪者の女性は、何かを売っているのか?

「別に俺は、何もあなたの商売を邪魔する気は……」

「あんたがいるだけで邪魔なんだよ!」

 すげえ言われようだ。俺がいるだけで邪魔になる商売ってなんだ?

 そんなことを言い合って(ほぼ一方的に言われているだけだが)いると、ざっと、誰かの足音がした。その方向を見ると、角を折れたところから一人の中年男性がこちらに歩いてきていた。

「いいからさっさと行け!」

「え、はい、はあ……」

 とにかくものすごい剣幕で追い返されてしまう。もう少し休んでいたかったが、彼女と喧嘩をしてまでこの場に残る理由もなかったので、すごすごと来た道を引き返した。

 だが、どうにも気になった。あの女性の商売とはなんなのだろうか。道を折れたところから物陰に隠れて、彼女の客とのやり取りを少し覗くことにした。

 浮浪者でもできる商売だ。ひょっとすると俺の苦境を脱するヒントがあるかもしれない。

 だが。

 俺は。

 すぐに。

 覗いたことを後悔することになる。

「いくらだ」

 挨拶も抜きに、男が聞く。

「七十」

 女性が答える。

「高いな。五十が相場だろ」

「六十」

「いや、五十だ」

 なにやら、値切り交渉が行われているらしい。だが、肝心の売り物は何だ?

「嫌なら俺は他の所に行くぞ?」

「チッ」

 女性が舌打ちする。

「分かった。いいよ、五十で」

「最初からそうしろ。浮浪者の分際で吹っ掛けやがって」

 どうやら交渉はまとまったらしい。

 すると、女性はまとっていた布をばさりと払い落した。

 たぶんそうなんじゃないかと思っていたが、布の下は裸だった。体も薄汚れているが、それでも形のいい乳房がぼろりと姿を現した。

 脱いだ布はどうするのかと思いきや、地面に広げる。そして女性は、その布の上に寝転がった。

「…………………………!」

 そこでようやく、俺は。

 思い至る。

 の正体に。

「へへっ」

 男は下卑た笑い声をあげて、ズボンを引きずり下ろす。

「いい体してるじゃねえか。薄汚いのがあれだが……」

「さっさとしな」

「せっかちな女だ。これからたっぷり気持ちよくさせてやるから安心しろ」

 思わず目を背け、物陰に隠れてその場に屈んだ。

 これ以上、見てはいけない。

 見なくても、何が起きるか分かる。

「…………………………っ!」

 それから先は、地獄だった。

 男の下卑た声。

 女の体を舐めまわす音。

 ガサゴソと鳴る衣擦れ。

 彼女の、演技と分かる嬌声。

 それらが、路地の中で響いた。

「………………」

 あまりのおぞましさに。

 俺は耳を塞いでその場にうずくまることしかできなかった。

 要するに、彼女が売っていたのは、自分の体だったのだ。

 売春だ。

 ここでも、売春だ。

 なによりおぞましいのは。

 あの男…………!

 値切ったぞ!

 こんなことをさせておいて、更に値切っていやがった。浮浪者でその日の飯にも困る彼女にとって、あの客は逃がせない存在だ。それが分かっているから、足元を見て、安く買い叩いたんだ。

 こんなことが、許されるのか。

 この世界では。

 体が、いや。

 心が震える。

 恐怖と怒り、悔しさをないまぜにした感情がこみ上げて来て、震えが止まらなくなる。

 


 なにより恐ろしかったのは。

 酒場の娼館に雇われる道があるだけ。

 俺はあの女性よりましなんだと。

 ほんのわずかに安堵した自分の心だった。

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