第9話 壊れた母親



──あの日から母さんを避けている。どうしても受け入れられなかったんだ、仕方ない。


それでも拒絶反応は段々薄くなっていった。

最初は母さんの何もかも嫌だったが、今では少し話せるようになり、互いに顔を合わせてもある程度は大丈夫になった。

どんなに心で嫌っても、やっぱり人一人を永久に憎み続けるのは難しく、時が経つにつれて怒りや憎しみの心が落ち着いてゆく。


だからいずれ父さんや姉ちゃんに、家族関係が壊れるのを恐れて黙っていた事、自分が母親に口止めしていた事も、全て正直に話して謝りたかった。


俺自身、拒絶し騙し続ける人生なんて嫌だから──



「雄治?」


「……ぁ」


母さんに名前を呼ばれてギョッとした。


母親に対する気持ちが、あの場面を目撃した直後くらいに巻き戻っている。

顔を合わせた瞬間に、あのときの爆発的な憎しみ・怒り・嫌悪感が鮮明に蘇ってしまったのだ。



「……くそ」


これではとてもじゃないが無理だ。

姫田愛梨や楊花なんて比較にならない程の悪感情を抱いた……とても和解なんて出来そうにない。

ただただ恐ろしく、母の周囲だけが黒く歪んで見えてしまう程だ……いやそれは目の錯覚だった。



………


………


姫田愛梨が相手だと憎たらしいから暴言を吐ける。


好きの反対は無関心と言う人も居るが、俺の場合は全く当て嵌らず、姫田愛梨に対しての気持ちはそのままの通り大嫌いに変わった。

普通に話し掛けられてもウザイと無視して、それでも我慢出来ない場合は怒りをぶち撒ける。姫田愛梨とは憎しみをぶつけられる存在なのだ。


………


………


そして姫田愛梨と対局なのが楊花。


楊花は許してる。

いや、むしろ俺が自分勝手に拒絶しているのだから彼女に対しては罪悪感の方が大きい。嫌われて仕方ないのは間違いなく俺の方だ。


それでも楊花は俺を気に掛けてくれており、毎日のようにメールを送ってくれる。母のような事務的で束縛を促すメールではなく、絵文字たっぷりの可愛らしいメールだ。


あの場面を目撃した直後、自分勝手にも恨んでしまったのが申し訳ない。

許されるのなら、楊花とは直ぐにでもやり直したいと思っている。ただ怖くてそれが出来ない。


………


………


そして母さんはどうだろう……?


トラウマのきっかけを作った張本人。

本当は石田の妹とも仲良くなりたかった、石田と一緒に寝ながら怖い話でもして友情を深めたかった。

なのにそれが出来ない理由……元を辿ればやはり母さんなんだ。


女性不信を患った今、母さんを見るだけで心臓が高鳴り身動きが取れなくなってしまう。

今の俺はまるで蛇に睨まれたカエルだ……俺を丸呑みにしようとする捕食者と仲良くなれる訳がない。



「……雄治!?」


雄治の母・杏奈は震える息子へ手を伸ばす……その震える原因が自分とも知らずに。

そのまま雄治の肩を抱えて、杏奈は丁重にリビングへ運び始めたが、肩を担がれた雄治はその手を振り払う事も出来ず、ただ恐怖のあまり硬直しされるがままだった。



「……………」


雄治は死人のような眼差しで、すぐ側で自身を支える杏奈を見詰める。お風呂上がりに漂う女性ならではの匂いが異様に鼻をついた。

フローラルなのに雄治の鼻には臭く感じる。



「──体調が悪かったのね」


「………ウン」


無機質な声で雄治は答えた。

リビングまで到着した杏奈は、そっと雄治をソファーの上に寝かせる。そして近くに置いてあった薄い布団を優しく雄治に被せる。

久しぶりの母との触れ合いだが、雄治は気持ち悪くて仕方なかった。口を開けば吐いてしまうだろう。


しかし、杏奈は拒否しない雄治を見て自分の都合が良いように解釈したらしい……久しぶりに息子と触れ合えて喜びを露にした。



「今日は朝まで診ててあげるから……こうして雄治が甘えてくれるのなんて、久しぶりだもん嬉しいわ」


「………ちが」


甘えてる訳がないだろ、具合悪いんだよ……

お前の所為なんだ、殺すぞ!コイツと姫田愛梨は絶対に殺す……!



「…………す」


「酢?」


ダメだ喋れない……吐く、絶対に。

前までは何とも無かったのに……風呂上がりの匂いも嫌だし……なんでこんなに苦しいんだ?


(姉ちゃん助けてくれ)



苦しい時に真っ先に思い浮かんだのは父でもなく、友人でもなく、姉である優香の姿だった。


しかし、雀荘に行ってて彼女は不在。

もし、この場で雄治を助けていれば依存される程懐かれていただろうに……優香、痛恨の極み。




──雄治は母に看病されながら今日起きた出来事を振り返った。そうすることで気持ちを落ち着かせようと試みる。


……朝起きてから今まで色んな事があった姉ちゃんが姫田愛梨を学校に連れて行ってくれたし学校では碓井達と沢山話してたでも隣のウンコがずっと見て来てたし昼休み普段煩いギャルがいつも以上に煩かったし話した事もない女に『愛梨と別れたの?』とか気安く話し掛けられたし先生に難しい質問をされて答えられず笑われたし生徒会では嫌な思いをさせられたし石田の家でも酷い目に遭ったしアイツの妹がおかしなやつで二度と関わりあいたくないと思ったし姫田愛梨には散々付き纏われて殺そうと何度も思ったし最後の最後の最後で母さんに出会ってしまったし。

やっぱり帰ってこなければ良かった……石田に妹さえ居なければ……また女の所為か、やっぱり女は敵だ。



──1日の振り返りは逆効果だった。更にマイナスへと気持ちが落ち込んでしまう。



「最近雄治からのメールの返事がないから──それと欲しい物が有ったら言ってね?なんでも買ってあげるからっ!……愛してるわよ雄治。だからどうか母さんを捨てないでね?」


メールを返さなくても動けるだろ。欲しいものはないから大人しくしてて欲しい。俺も愛してたけど今は愛してない。実の息子に捨てないでとか言うな……重いんだよいちいちマジでよ。


……でも口に出して言えない。

思った事はハッキリ言うと心に決めたけど、この人だけは別だ。金縛りにあったみたいに身体が一切いう事を聞かなくなってしまう。



──そして杏奈はと言うと、言葉を掛けても拒絶せずに大人しく話を聞いてくれる雄治を前に喜び舞い上がってしまっていた。

いつもは逃げられ、こうして話なんて出来ない……久しぶりなのだ、雄治とこうして沢山話せるのは──


それが、例え一方的だったとしても、杏奈にはどうしようもなく嬉しいのだ…………思わず雄治の手を握り締めるくらいに──



「雄治……明日休みでしょう?優香と私の三人で出張してるお父さんのところに──」


「さ、触るなぁッ……!」


手を強く握られたショックが大きかったらしく、その反動で雄治はようやく声を上げる事が出来た。あまりの剣幕に杏奈は慌てて手を離す。



「……え!?あ、ご、ごめんなさい……!!」


「はぁ……はぁ……今更、辞めろよそんなこと」


「…………ごめんね」


やっと声が出せた。

俺に怒鳴られた母さんは泣きそうな顔をしている。

悲しいからあんな顔になってる筈だが、それを見ても俺の心は演技だと嘲笑う。


母さんだけに限らず、姫田愛梨も石田の妹も弥支路さんも生徒会長の妹も姉ちゃんが家に連れて来た友達も頻繁に見掛ける近所のおばさんも図書室でよく俺にだけ話しかけて来る歳下女もクラスのうるさいギャル達も真面目な委員長も美化委員の先輩もコンビニの女性店員も信用してはならない──だって女だから。信頼出来る女なんてこの世に一握りしか存在しないんだ。



──それなのに性懲りも無く母さんはまだ俺に話し掛けて来やがる……!!



「お母さんね?アレからお酒も飲んでないし、用事以外で外を出歩かないわよ?雄治なら知ってるわよね?」


そう知ってる、GPSの所為だ。

無理矢理渡された奴……何度捨てた事か。



「そのGPSも要らない……いちいち所在地なんて知らせなくてもいいからな?捨てても机に置いてあるし、それとメールの定時連絡も必要ない」


「……それはだめ」


「どうしてダメなんだよ」


「……母さんが消えない為に必要なの。雄治に私の全てを解って貰ってるから母さんは安心して生きていけるのよ?」


「…………」


「──それとも雄治はお母さんに消えて欲しい?」


「…………」


消えるだろうな。

ここで俺が『そうだ』と言えば、多分、母さんは俺の前から消える。そんな表情と目をしているんだ。そして二度と俺の前に姿を表すことはないだろう。


ならば好都合、ここで肯定の返事をすれば俺は安らぎを手に入れる事が出来る──



「……そこまではいいよ」


でも俺に母さんを消す度胸なんて無い。



「……そう、良かったわ。愛してる雄治……私は貴方の為に生きるからね?それが私の出来る唯一の償いなの。けど母さんが要らなくなったら言ってね?直ぐに居なくなるから──あっ、それはそうと偶にはメールを返して欲しいわね」


「……………」



──何を勘違いしていたんだろう。



「雄治とあの人以外の男性とは仕事でしか話をしていないわ──ね?ね?母さん偉いでしょ?」



──母さんはとっくに壊れてんだ。



「愛してるわ雄治。貴方が居るから母さんは頑張れるのよ?あの人も優香も皆んな大好き……それなのにごめんね雄治……馬鹿な私を許して」



──最近壊れた俺と違い、母さんは結構前に壊れてるんだ。虚な目で赦しを乞うのを見てそう確信した。

あの狂ったメールも壊れてるからだと……同じように狂った今だからこそ俺も気付けている。


………



………


……いやでも良かったよ俺だけじゃなくて。

だって元凶が平気だったらすげぇ嫌だもん。

家族を裏切った者同士なんだから、やっぱり一緒に堕ちなきゃダメなんだよ。


そして同類が居るから、お陰で俺も多少は気が楽になった……ありがとう母さん。

母さんは一人で苦しんで辛かったと思うけど、俺もこれからは一緒だからさ。


そしてごめん……たった一度の過ちすら許す事の出来ない人間になってしまって──



誰か俺たちを助けて欲しい。



♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎


~優香視点~


雄治が友達の家に泊まると聞いて優香も同じように友人の家で寝泊まりをしていた。


時刻は正午過ぎ……友人の家で昼食を済ませての帰宅である。正真正銘のヤンキーライフだ……雄治からヤンキー女と見下されるだけの事は充分にある。



「ただいま~……おっ?雄治居んのか?」


脱ぎ捨てられた弟の靴を見つけ、雄治が帰って来てると認識する。

優香は弟が散らかした靴を綺麗に並べ直し、そのまま雄治の部屋へと向かった。


「──おーい!プリン買って来たぞ~……居ない──って事はリビングか?母さんが居るし、今日は部屋に籠ってると思ったけどね……そういえば母さんの靴なかったっけ?」


優香はベッドの下にエロ本がないかを確認してからリビングへ向かった。因みエロ本は無かった。



「おーいっ!雄治……え」


「………ん?どうした姉ちゃん?」


「い、いや……気の所為か……?」


一瞬すげぇ怖い顔してる様に見えたんだけど?

怖いというか、感情が無いと言うか……いや雄治に限って病む心配はないと思うけどね。この子くらい心臓に毛が生えてる強い子は見た事ないし。



「雄治、とりまプリン食おうし」


「いやそのネタもういいっちゅうねん!」


「ネタってなんやねん」


うんうん、いつもの雄治だ。

何処に出しても恥ずかしくない可愛い弟。まぁ何処にも出す気ないんだけどさ。



「まぁまぁ、今回は食ったりしないって」


「お値段はお安いんでしょ?」


「いやなんと490円」


「ゴージャスやんけ!!」


「姉ちゃんの奢りだから感謝しい?──てか母さんは?……って雄治が知ってる訳ないか」


「…………緊急の仕事が入ったからって、さっき出て行ったよ」


「そ、そうか……仲直りしたの?」


「どうして?」


「いや母さんのこと知ってるから」


「仲直りなんてあり得ないよ」


「ありえないって……そっか……」


「姉ちゃん」


「ん?」


「姉ちゃんは絶対に裏切らないでしょ?」


「そうだけど……いやいやっ、本当にどした?大丈夫なん?」


「大丈夫だって──」





それは音を立ててゆっくりと、静かに、そして深く、雄治を侵食して行くのだ。


その音とは壊れる音。あまりに静かな音だから弟を激愛する優香にすら聴こえない。

それに雄治は自身を偽るのが非常に得意な男、決して誰かに悟られるようなヘマは侵さないだろう。



「──俺はいつも通りだよ、姉ちゃん」


そう言って雄治は薄っすら笑みを浮かべた。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る