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 冬の訪れと共に、紫陽花アジサイの根元にあった小舟は、葉が全てが落ち、枝だけとなり、外から見えるようになって暫くした頃、忽然とその姿を消してしまった。


 結局のところ誰が置いたのかも分からず、小舟が消えたのもまた、現れた時と同様に、人の手で動かされたものかどうかも分からないまま。

 その場にあることに見慣れてきたものが不意に無くなったことへの空虚感とも云えるこの奇妙な感覚も、やがては無くなると分かってはいても、剥き出しになった何もない紫陽花アジサイの根元が目に入る度に、胸の中を冷たい風が通り抜けるのだった。


 従業員入り口にあるような、それと分かる防犯カメラみたいなものではなく、一見して分からないものを玄関辺りに設置してはどうか、という泉田の言葉を喬之介は、やんわりとではあったが却下した。

「敏感になっているクライエントは、たとえカメラが見えなくても視線を感じるんじゃないかな」というのは泉田に向かって言った喬之介の持論ではあったが、池永も賛同してくれたことには少なからず驚いたものだ。


「そういえば先生、須見さんの裁判はどうなったんですか?」


 帰り支度を終え「お先します」と挨拶をしに部屋へ訪れた泉田と池永に、パソコンの画面から視線を外すことなく労いの言葉を掛けていた喬之介は、突然の問いに弾かれるように顔を上げた。

 ダウンコートで着膨れた泉田の脇腹の辺りを、さりげなく肘で突いている池永の姿を目にしたとなれば、スタッフルームで出た直近の話題をそのまま口にしたと思える。

 そのいかにも泉田らしい言動に、喬之介は苦笑を隠しきれなかった。

 

「……まだ、何とも言えないかな。検察側としては、無期懲役を求刑してる。完全責任能力があれば死刑を選択すべきだが、心神耗弱を考慮し減軽しなければならないという立場を取ってのことなんだけど……弁護側は事件当時は心神喪失状態だったとして無罪を求めて争う姿勢を崩さないから、最終的にどこに決着することになるかは、まだ暫くかかるだろうね」

「先生たちのことだけじゃなく、二人も殺してるのよ? 無罪なんて有り得ないわよ」


 被害者である喬之介が身近な存在ということに加え、事件の概要が明らかになるにつれ問われる須見の責任能力と、その残虐性が世間を騒がせたこともあって、検察側の求刑に疑問を抱くように池永は首を傾げる。


「まあ、裁判所は検察官の求刑に拘束されないとは言っても、求刑超えの判決はそうそう無いからね。それにこの件は……最終的に無期懲役という厳しい判決が下るのかどうかも、ちょっと分からない」

「どういうことですか?」


 泉田が眉を顰めながら喬之介を見た。


「裁判所の判断に委ねられるんだけど、まず死刑は無いんじゃないかな。なぜならすでに今の段階で死刑の求刑相当だと考えている検察側だけど、それでも心神耗弱を疑えるとして無期懲役を求刑していることが一つ。またその一方で弁護側は心身喪失を訴えている。行動を制御することが困難だった、つまり心神喪失状態にあったとする合理的な疑いが残るって訴えているんだよ。さらに弁護側は精神鑑定の疑問があるとまで主張している。とは言っても心身喪失が認められるのは極めて稀なことで、酷く難しい。

 つまり争点は犯行時、須見が心神耗弱の状態に留まっていたのか、心身喪失の状態にあったのかにある。精神状態や動機、違法性の認識、行動をコントロール出来る能力があったのかどうかを詳しく調べたこの先、最終的な責任能力の法的結論が出るんだけど……あくまでも、だよ? 僕の考えではあるけど、結局のところ心神耗弱になるんじゃないかなって思うんだ。

 そうなった時には実刑判決が出たとしても、最初の求刑である無期懲役とまではいかずに、結果としてある程度のところで落ち着くんじゃないかって……再犯の可能性が無いと捉えられたら無期懲役どころか、懲役十年とかもあり得る。もちろんこれも、僕が勝手に思っているってだけのことだから、違うかもしれないし何と言われても仕方ない」

「そんな……他人事みたいに。まあ、先生はそうやって気持ちに線を引いてるんでしょうけど……でも、今からだって責任能力があるとなることも、あるんでしょう?」

「もちろん。それもあるには、あるね」

「責任能力かあ……。あやふやな精神状態を理由に刑を軽くせざるを得ないってのは、遺族にしてみれば、やり切れないし、たまったもんじゃないですよね」


 とはいえそれは、まだまだ先のことだ。

 長い裁判の決着が出る頃には、再びの夏が来ているに違いなかった。

 頭の中に視えるものが誰かの過去であると主張する須見を前に、覚えのある自分の過去を、それも後ろ暗い過去の一場面を、言い当てられた人達は皆、それを正面から受け止めたり、切って捨てることが果たして出来るのだろうか。説明のつかないことを前に、頭の中を実際に覗かれた気味の悪さを覚えつつも、単なる偶合ぐうごうだと捉え、妄想や幻覚だということにして目を逸らさずにはいられないのではないだろうか。

 かつての喬之介が、そうだったように。

 


「先生も早く帰った方が良いわよ。これからぐっと寒くなるって、さっき天気予報で言ってたから。無理して風邪ひかないように気をつけてくださいね」


 大判のストールをマフラーのように首にぐるぐると巻きつけた池永は、その寒さを想像したと見え、ああ、やだやだと言わんばかりに、その場で足を踏んだ。

 お疲れさまでした、と今度こそ喬之介に背を向けた二人の話す声が小さくなってゆく。


「雪とか降らないかなあ。朝起きたとき、真っ白だと、それだけでワクワクしますよね」

「歩き慣れない地面と、玄関前の雪かきを思って、ぞっとするだけよ」

「ええーっ。嘘でしょ。池永さん、童心はどこに行っちゃったんですか」

「あら、そう言えば、だいぶ前から行方不明ね」


 扉の閉まる音と共に静寂が訪れた。


 誰も居なくなったクリニックの窓ガラスから冷気が差し込むのを背中に感じ始めた頃ようやく、ひとつ伸びをして喬之介は椅子から立ち上がる。

 この日の最後のクライエントが製作した箱庭を片付けてから帰ろうと、窓のない部屋へ向かった。

 部屋の明かりを点け、写真を撮り終えた後そのままにしてあったテーブルの上の箱庭を、覗き込んだ。配置された造型物のひとつひとつを掌の上に載せると、細かな砂を払ってから種類別に棚に戻すを、何度か繰り返す。続いて、造型物がすっかり無くなった箱庭の中の砂を、両方の掌を使い丁寧にならした。

 何も無い砂が敷き詰められた箱庭を、喬之介は暫くの間、じっと見つめる。どのくらいの時間、そうしていたのだろう。

 再び棚の方へと向かった喬之介は、いくつかの造型物を選び、手に取ると箱庭の前へ戻り――


 砂の上へ、置いた。


 







 

 

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